オシップ・ルニッチとは? わかりやすく解説

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オシップ・ルニッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/30 15:10 UTC 版)

オシップ・ルニッチ
Ossip Runitsch
本名 Osip Fradkin
別名義 Ossip Runitch
Osip Runich
Giuseppe Runitsch
Josef Runitsch
生年月日 1889年
没年月日 1947年4月6日
出身地 ロシア帝国サンクトペテルブルグ[1]
死没地 南アフリカ共和国ヨハネスブルグ
民族 ユダヤ人
職業 俳優プロデューサー舞台監督
主な作品
悲しみよ、鎮まれ...悲しみよ...英語版
怪傑ダントン
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オシップ・イリイチ・ルニッチロシア語Осип Ильич Рунич, ラテン語表記: Ossip Iliych Runitsch、1889年-1947年4月6日)は、ロシア帝国出身の俳優プロデューサー舞台監督である。

略歴

悲しみよ、鎮まれ...悲しみよ...英語版』におけるルニッチとヴェラ・ホロドナヤ英語版

ルニッチは「ロシア映画の王」と称された[2]ロシア無声映画の大スターであり、ロシア映画界を代表する最初の人物の一人である。 1915年から1919年にかけて、ルニッチはヴェラ・ホロドナヤ英語版ヴィトルド・ポロンスキー英語版ピョートル・チャルディーニン英語版らと『悲しみよ、鎮まれ...悲しみよ...英語版』『最後のタンゴ英語版』などのサイレント映画に出演し、成功を収めた。

怪傑ダントン』におけるカミーユ・デムーランに扮したルニッチ

長年慕っていた共演者のホロドナヤが1919年に亡くなった後、ルニッチはロシアを出てイタリア、ついでドイツに渡り、エミール・ヤニングスヴェルナー・クラウスら有名なドイツ人俳優と共演した。

1925年、ルニッチは宮廷バレエダンサーのニーナ・パヴリシチェワと結婚。 ラトビアリガに拠点を移した1930年代には、自身のルーツであるユダヤ文化に立ち返り、イディッシュ語を学んで東欧のユダヤ人演劇界の主要人物となった[3]

第二次世界大戦の勃発が避けられないと悟ったユダヤ人のルニッチは1939年から南アフリカ共和国に住み、同地で最初のプロの劇団のひとつとなるイディッシュ語劇団を創設した[3]。 その傍らで1940年代半ばには州立劇場で『ラ・ボエーム』、『トスカ』『ファウスト』などオペラをプロデュースし、1946年にはアフリカーンス語で上演された初のオペラ『カルメン』を制作した[3]

主な出演作

公開年 邦題
原題
製作国 役名
1918 悲しみよ、鎮まれ...悲しみよ...英語版
Молчи, грусть... молчи...
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 ザリツキー
1918 最後のタンゴロシア語版
Последнее танго
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 ジョー
1921 怪傑ダントン
Danton
ドイツ国 カミーユ・デムーラン
1924 恋のコサック英語版
Taras Bulba
ドイツ国 オスタップ
1924 維納の夢英語版
Prater
ドイツ国 リノン伯爵
1925 マデレンの二つの命英語版
Das goldene Kalb
ドイツ国

脚注

注釈

出典

外部リンク




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