エセン・ブカ_(ジャライル部)とは? わかりやすく解説

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エセン・ブカ (ジャライル部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/18 07:30 UTC 版)

エセン・ブカ(Esen buqa、生没年不詳)は、14世紀中頃に大元ウルスに仕えたジャライル部国王ムカリ家出身の領侯(ノヤン)

元史』などの漢文史料では也先不花(yěxiān bùhuā)、野仙溥化(yěxiān pǔhuà)、野仙普化(yěxiān pǔhuà)などと表記される。

概要

エセン・ブカは建国の功臣ムカリの孫アルキシュの孫ナイマンタイの息子であった。アルキシュはムカリの地位を継承したボオルの息子であったが、モンケクビライに仕えた兄のタシュスグンチャクバアトルに比べると影の薄い存在だった。しかし、元代中期以後の内乱によってバアトル家のバイジュが暗殺される(南坡の変)などすると、相対的にアルキシュ家は存在感を増し、ナイマンタイの父のクスクルはムカリ家当主の地位(国王位)を継承するに至った。クスクルの地位はナイマンタイの兄のドロタイに引き継がれ、ドロタイは天暦の内乱において上都派の主力として活躍した。天暦の内乱においてドロタイは敗北し処刑されてしまったが、内乱の勝者エル・テムルバヤンと結んで地位を高めたのがナイマンタイであった[1]1338年後至元4年)にムカリ家当主たる国王の称号を得たナイマンタイは、1342年至正2年)に遼陽行省左丞相に任命され、遼陽方面に拠点を持つようになった。

ナイマンタイの長男がエセン・ブカで、まずはケシクテイ(親衛隊)に入ってシュクルチ(傘持ち)を務め、その後監察御史・河西廉訪副使の地位を得たという[2]。しかし1351年(至正11年)には紅巾の乱が河南で起こっており、1353年(至正13年)5月には河西廉訪副使であったエセン・ブカが淮西宣慰副使とされ、泰州での叛乱鎮圧を命じられた[3]。この後、1354年(至正14年)までには御史中丞の地位に遷ったようである[4]

1357年(至正17年)までには中書右丞の地位に進み、同年8月に御史中丞の成遵とともに華北の彰徳路大名路広平路東昌路東平路曹州濮州を宣撫するよう命じられた[5]。また1359年(至正19年)には国王ナンギャダイらとともにタンマチ軍を率いて遼陽に出兵するよう命じられた[6]。一方、この頃より山西の軍閥であるボロト・テムルと河南の軍閥であるチャガン・テムルの対立が表面化しており、1360年(至正20年)9月には当時参知政事の地位にあったエセン・ブカが両者の講和を仲介している[7]

1362年(至正22年)には中書右丞に昇格となったが[8]、同年に死去したチャガン・テムルの地位を継承したココ・テムルとボロト・テムルの対立は激化しており、1364年(至正24年)にボロト・テムルはクーデターを起こして首都を占領してしまった。態勢を立て直した反ボロト・テムル勢力は1365年(至正25年)7月末までにボロト・テムルを討伐したが、その功労者の一人のイェスは「西は太原のココ・テムル(太原拡廓帖木児)」「東は遼陽のエセン・ブカ国王(東連遼陽也先不花国王)」と連携できたことでボロト・テムルが劣勢に追い込まれたとする[9]。これによって、この頃既にエセン・ブカは遼陽を拠点とする大勢力として見なされていたことが分かる[10]

1368年(至正28年)正月、江南では朱元璋を建国していたころ、大元ウルスの朝廷では国土回復のために諸将を各所に振り分けることとなり、「太尉・遼陽左丞相」の地位にあったエセン・ブカは知院の厚孫らとともに「海口」を守り首都圏を支えるよう命じられていた[11]。しかし時既に遅く、同年閏7月末には明軍の接近を知ったウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)が大都の蜂起を決断し、朝廷は北方に逃れることとなった。ウカアト・カアンが大都を発ってすぐ、エセン・ブカは使者を派遣して入覲を請うたが、ウカアト・カアンはこれを断ったという[12]

同年8月15日、ウカアト・カアン一行は上都に辿り着いたが、これより先に紅巾軍の掠奪を受けた上都は荒廃しきっていた。そこで、遼陽行省が幣2万匹・糧5千石を献上することによってウカアト・カアンらは「自存」することが可能になったという[13][10]1371年洪武4年)には明朝側で「開元には丞相エセン・ブカの兵があり、金山には太尉ナガチュの衆があって、互いに助けあっている」との記録があり、遼陽方面における一大勢力として認識されていたことが窺える[14]

この後、エセン・ブカについて史料上で言及される事は無くなり、新たに「国王」号を継いだナガチュが活躍するようになるため、恐らくはエセン・ブカの息子にあたるナガチュが地位を継承したものと考えられている。なお、15世紀以後に現れるハルハ部は、元代における「五投下」の後身で、直接的には元末明初に遼陽で強大な勢力を誇ったエセン・ブカとナガチュ父子の部衆を母体とするものと考えられている[15]

ジャライル部アルキシュ系国王ムカリ家

脚注

  1. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝,「乃蛮台、木華黎五世孫。曽祖曰孛魯;祖曰阿礼吉失、追封莒王、諡忠恵;父曰忽速忽爾、嗣国王、追封薊王」
  2. ^ 『元史』巻139列伝26乃蛮台伝,「子二。長野仙溥化、入宿衛、掌速古児赤、特授朝列大夫・給事中、拝監察御史、継除河西廉訪副使・淮西宣慰副使、累遷中書参知政事、由御史中丞為中書右丞」
  3. ^ 『元史』巻43順帝本紀6,「[至正十三年五月]辛亥……命前河西廉訪副使也先不花為淮西添設宣慰副使、討泰州」
  4. ^ 『元史』巻43順帝本紀6,「[至正十四年夏四月]是月……発陝西軍討河南賊、給鈔令自備鞍馬軍器、合二万五千人、馬七千五百匹、永昌・鞏昌沿辺人匠雑戸亦在遣中。造過街塔于盧溝橋、命有司給物色人匠、以御史大夫也先不花督之」
  5. ^ 『元史』巻45順帝本紀8,「[至正十七年八月]辛丑、詔中書右丞也先不花・御史中丞成遵奉使宣撫彰徳・大名・広平・東昌・東平・曹・濮等処、奨励将帥」
  6. ^ 『元史』巻45順帝本紀8,「[至正十九年秋七月]戊申、命国王嚢加歹・中書平章政事仏家奴・也先不花・知枢密院事黒驢等、統領探馬赤軍進征遼陽」
  7. ^ 『元史』巻45順帝本紀8,「[至正二十年]九月乙卯朔、詔遣参知政事也先不花往諭孛羅帖木児・察罕帖木児、令講和」
  8. ^ 『元史』巻46順帝本紀9,「[至正二十二年春正月]丁卯、詔以太尉完者帖木児為陝西行省左丞相。仍命察罕帖木児屯種于陝西。申諭李思斉・張良弼等各以兵自効。以也先不花為中書右丞」
  9. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「遂勒兵帰永平、西連太原拡廓帖木児、東連遼陽也先不花国王、軍声大振。孛羅帖木児患之、遣其将同知枢密院事姚伯顔不花以兵往討。軍過通州、白河水溢不能進、駐虹橋、築塁以待。姚伯顔不花素軽也速無謀、不設備。也速覘知之、襲破其軍、擒姚伯顔不花。孛羅帖木児大恐、自将討也速、至通州、大雨三日、乃還。孛羅帖木児先以部将保安不附己、殺之、至是又失姚伯顔不花、二人皆驍将也、如失左右手、鬱鬱不楽。事敗、遂伏誅」
  10. ^ a b 和田 1959, p. 172.
  11. ^ 『元史』巻47順帝本紀10,「[至正二十八年秋七月]丁巳、詔罷大撫軍院、誅知大撫軍院事伯顔帖木児等。詔復命拡廓帖木児仍前河南王・太傅・中書左丞相、統領見部軍馬、由中道直抵彰徳・衛輝。……太尉・遼陽左丞相也先不花、郡王・知院厚孫等軍、捍禦海口、藩屏畿輔」
  12. ^ 『北巡私記』,「[至正二十八年閏七月]三十日、雨。車駕次鶏鳴山。遼陽行省左丞相也先不花奏至、請入覲、詔止之」
  13. ^ 『北巡私記』,「[至正二十八年八月]十五日、車駕至上都。上都経紅賊焚掠、公私掃地、宮殿官署皆焚毀、民居間有存者。遼陽行省左丞相也速公献幣二万匹・糧五千石至、始有自存之勢矣」
  14. ^ 『明太祖実録』洪武四年六月二十一日(壬寅),「故元右丞張良佐・左丞房暠、遣参政張革行・枢密院副使焦偶・廉訪司僉事李茂・断事崔忽都、自遼東来貢馬……其元平章高家奴固守遼陽山寨、知院哈剌張屯駐瀋陽古城、開元則有丞相也先不花之兵、而金山則有太尉納哈出之衆、彼此相依互為声援」
  15. ^ 岡田 2010, pp. 306–307.

参考文献

  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 原田理恵「元朝の木華黎一族」『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』汲古書院、2007年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年



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