アヴァールとスラヴ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 23:50 UTC 版)
ユスティニアヌス1世の時代から多くのスラヴ人がドナウ川を渡って東ローマ帝国領に侵入していたため、ティベリウス2世(在位:578年 - 582年)はアヴァールを使ってスラヴの侵入を抑えようと考えた。しかし、アヴァールのバヤン・カガンは、スラヴとともに帝国領のトラキア,イリュリア,ギリシアに侵入し各地を略奪した。そして2年の攻囲の末に要塞シルミウムを陥落させる。 しかし、マウリキウス(在位:582年 - 602年)の時代になると(591年)、将軍プリスクス(英語版)を北方の守備にあたらせ、シンギドゥヌム(英語版)をアヴァールの手から奪還し、600年の和議でドナウ川を両国の国境とすることが決められた。翌年(601年)、プリスクスはドナウ川を越えてアヴァールに打撃を与えることに成功し、ほどなくしてバヤン・カガンも亡くなった。 602年にフォカス(在位:602年 - 610年)による帝位簒奪事件が起こると、北方の守備が手薄となり、ふたたびアヴァールとスラヴの侵入が激化。スラヴ人はバルカン半島南部(現在のギリシア)へ大量に移住した。 623年、アヴァールとスラヴ、サーサーン朝の軍勢がコンスタンティノープルを海と陸から攻撃。しかし、東ローマ帝国軍の防御は固く、陥落を免れた。
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