アドヘルバルの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 16:47 UTC 版)
「マルクス・アエミリウス・スカウルス」の記事における「アドヘルバルの死」の解説
紀元前112年、アドヘルバルはユグルタをキルタ(現コンスタンティーヌ)近郊で迎え撃ったが、夜襲を受け敗北、キルタに逃げ込んだアドヘルバルをユグルタが包囲した。これを知ったローマはユグルタに使者を送り説明を求めたが、ユグルタはアドヘルバルに命を狙われたとうそぶき正当性を主張、ローマへ説明しに行くことを約束すると使者は帰国した。使者がいなくなるとユグルタは更に包囲を強め、窮地に陥ったアドヘルバルはローマへ密使を送り助けを求めた。 アドヘルバルの救援要請に対し、軍を出すべきとの意見もあったが、ユグルタの鼻薬が効いており実現しなかった。しかし前回より地位の高い人々で構成された使節団の派遣が決定され、スカウルスらが選ばれた。使節団は大急ぎで北アフリカへ渡り、ユグルタへ出頭を命じた。ユグルタはスカウルスを怒らせることを恐れ、包囲を解くことなく出頭したが、使節団は威嚇だけして帰国してしまった。カルタに滞在していたイタリア出身の事業家たちは、自分たちはローマの威光で害されることはないだろうと楽観視し、アドヘルバルを降伏させ、アドヘルバルはユグルタに殺害された。
※この「アドヘルバルの死」の解説は、「マルクス・アエミリウス・スカウルス」の解説の一部です。
「アドヘルバルの死」を含む「マルクス・アエミリウス・スカウルス」の記事については、「マルクス・アエミリウス・スカウルス」の概要を参照ください。
- アドヘルバルの死のページへのリンク