『意志と表象としての世界』以降
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「アルトゥル・ショーペンハウアー」の記事における「『意志と表象としての世界』以降」の解説
1825年(37歳)、再びベルリンへ戻り、改めてベルリン大学で講義を行なおうと試みると、講義への聴講届は多かったものも、相変わらず理解されない。しかし『意志と表象としての世界』は詩人ジャン・パウルにより『小書評』にて輝かしく批評される。1828年(40歳)には『意志と表象としての世界』第二版を意図し、「わが父の霊に」という献辞を書き、また1829年(41歳)にはカントの主著を英訳して出版することを計画している。1830年(42歳)、『視覚と色彩について』をラテン語に書き改めた『生理学的色彩論』Theoria colorum physiologicaを『眼科学的著述小全集』(ライプツィヒ、レオポルト・フォス社刊)第三巻の巻頭論文として発表、同じ年バルタザール・グラシャンの人生智三百則よりなる『神秘必携と処世術』を翻訳、しかしこれは死後に公刊。このころ結婚の計画を考えたり打ち捨てたりしている。
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