「捕虜宣言」の拒否と移動命令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 15:02 UTC 版)
「セララン兵営事件」の記事における「「捕虜宣言」の拒否と移動命令」の解説
福栄少将は、チャンギーの連合軍捕虜を統率していたマンチェスター連隊(英語版)のE.B.ホウムズ大佐に、全ての捕虜に、脱走を企てないとの誓約書に署名させるよう要請したが、署名を希望する捕虜はなく、ホウムズ大佐はこれを拒否していた。 1942年9月2日、拒否の翌日、チャンギーの連合軍捕虜のうち、傷病者を除く約15,000人に、即日セララン兵営に移動するよう命令が下された。 セララン兵営はかつてゴードン高地地方部隊(英語版)が使用していた兵営で、広場の両側に2つずつ兵舎があり、周囲には排水溝が巡らされ、排水溝の外側にはインド国民軍の兵士が50メートルおきに歩哨に立っていた。収容人員は900人弱だったが、そこに約15,000人の捕虜が収容された。 兵営は過密状態となり、食糧や水も不十分な状態に置かれた。便所や手洗いもなく、そこから数ヤード先にある消火栓の使用も禁じられたため、捕虜たちは広場に便壷を掘る作業から始めた。敷地は極めて狭く、数ヤードの隙間に各人は住みかつ寝るほかなかった。ホウムズ大佐はそれでも「捕虜宣言」への署名を承諾しなかった。
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