鶴瓶上岡パペポTV
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番組スタイル
この番組は、読売テレビのディレクター(当時)の白岩久弥と構成の疋田哲夫が「笑福亭鶴瓶さんで番組を作ろう」と企画したのが始まりで、鶴瓶が共演相手に上岡龍太郎を指名して番組が始まることになった。しかし、肝心の番組内容がなかなか決まらず、結局「2人に決めてもらおう」ということで、1987年3月31日から4月3日の4日間、深夜に4回連続で放送されたパイロット版扱いとなる特番『鶴瓶上岡・激突夜話』(つるべ・かみおか げきとつよわ、「よわ」は「4話」とかけている)が組まれる。ここでの2人の会話が後のパペポTVのスタイルになっている。
タイトルが示すとおり、放送禁止用語[注 6]も多く飛び出した。話が長くなる場合はその部分ごとカットされて、当初はブルーバックに「なんやかんやで〇分経過」「ちょっと早送り」というテロップを乗せた一枚画で凌いでいたが、やがて砂嵐の映像を1秒流して処理するようになった。また、1988年以降の1月1日早朝(編成上は12月31日深夜)には、『ゆく年くる年』[注 7]や日本テレビ発の年越し番組終了後に、毎年必ず2~3時間ほどの新春スペシャルが放送されていた。新春スペシャルには、横山ノックがほぼ毎回ゲスト出演していた[注 8]。さらに、1994年は「名作復活祭」、1995年は「リクエスト大会」、1996年以降は前年放送分の収録終了後(エンディングの挨拶の後)の放送には入らないトークをまとめた総集編も織り込まれていた。後述する「パペポシアター」開催期間中の1988年3月と1991年7月には、帯の総集編特番[注 9]を編成している。
讀賣テレビ初代社屋で収録が行われていた時代、観客は基本的にカメラの後方で観覧することになっていた[注 10]。そのため、番組のエンディングの際に、鶴瓶・上岡両名が通称「鶴瓶ダンス」をしながら番組セットからカメラの方へ飛び出したり(1987年7月14日放送分)、「浜寺の水練学校」をテーマにした即興漫才が行われた際に、鶴瓶がオチとして「後は任したー!」と叫びながらカメラの方へ泳ぐようにしてフレームアウト(1988年7月8日放送分)というような演出がたびたび行われていた。新社屋移転後は、観客が番組セットの目の前に座って観覧するようになったため、前述のようなことは一切無くなった。ただし例外として、第176回と第370回放送で無観客による収録が行われた際には、昔を懐かしむ形で前述の行為を再現していた。
また、番組開始当初は郵政省(現・日本郵政)が「郵便局」のクレジットで1社提供[注 11][注 12]していたことから、番組の最終コーナーではゆうパックを使って近畿各県(のちに近畿以外のエリアからも)の郵便局から提供される「ふるさと小包プレゼント」を開催していたことがあり、そこで視聴者の感想文に答えていた。のちに郵政省筆頭の複数スポンサーとなってからも続いたが、1992年3月に郵政省がスポンサーを降板したため「ふるさと小包プレゼント」は廃止となるが、感想文紹介は行われ続けた。プレゼントの提供自体も続けられ[注 13]、郵政省降板後は一時期筆頭スポンサーを務めていた中納言からの伊勢海老と食事券のセット(1992年4月 - 12月)、番組特製時計(1993年1月 - 3月)、番組特製テレホンカード(1994年4月 - 1997年12月)と変わっている。
番組企画・イベント
大阪・梅田のダイヤモンドプラザで開催した「パペポシアター[注 14]」を嚆矢として、大阪城ホールで2回[注 15]、日本武道館[注 16]・ニューヨーク[注 17]でもトーク・イベントを開催した。
1992年に大阪城ホールと武道館で開催した際にはイベントタイトルが「PAPEPO JAPAN TOUR」(パペポ・ジャパンツアー)と題され、武道館開催分に関してはネット受けしていた日本テレビが主催としてクレジットされた。
なお、各イベントは原則テレビ放送しないことを前提としており、イベントの様子は記録用に撮影されたものや視聴者から提供されたビデオカメラの映像が番組スペシャルで、ニューヨークのイベントは上記の映像と共に本番組について取り上げた『スーパーテレビ情報最前線』の中で一部が放送されたのみとなった。
このうち「パペポシアター」については、開催3日目のトークを収録した音源が、冊子付きのカセットブックとして東芝EMIから発売されている(後述)。
さらに1990年3月25日、番組で「2人が相撲をとったらどちらが勝つ?」という話から「嵐の春場所」と称し長居公園でイベントを開催し2万人を集め(近くの木やフェンスなどによじ登ってまで観覧した者もいた)、客の押し合いで5人が怪我するというハプニングもあった[注 18]。なお、この勝敗は収録で東京に行った上岡の代理で弟子のテントが、鶴瓶に5回とも倒されている[注 19]。同日に行われた大相撲大阪場所の千秋楽よりも人が入ったという[注 20]。
また、1989年には番組の人気を反映してポスターを制作したことがあり、鶴瓶・上岡両名が上半身は燕尾服姿も下半身丸出し(当然モザイク処理されている)で写っており、糸井重里が考案した『見てるあんたも同罪じゃ。』というキャッチコピーがつけられた異例のビジュアルであった[注 21]。ポスターは番組最後でハガキが読まれた視聴者にプレゼントされたほか、大阪城ホール公演での売店および番組あてに郵送で購入申し込みを行うことで入手することができた。
特殊な放送例
公開録画が原則の番組であったが、収録当日のトラブルや意図的な理由などで、観客を入れずに放送した回が7回あった。
- 1回目(1989年10月7日放送)
- この回は大阪城ホール公演(1989年10月3日)のアンコール終了後に大阪城ホール内の楽屋にて収録された。オープニングは公演のアンコールが終わるところからスタート。舞台から引き上げてくる2人が楽屋に向かうところを舞台裏で待機したカメラが追い(このとき舞台は映らない)、楽屋に用意された椅子に着席してトークが始まった。
- 2回目(1990年9月22日放送)
- 収録時に近畿地方を台風が直撃したため、収録直前に観客を帰らせた。エンディングでは当日来ていた観客へのお詫びの文が表示されている。
- 3回目(1990年10月20日放送)
- 観客なしの放送が新鮮であったため、もう一度やってみたいという鶴瓶・上岡の申し出による。なお、この回では特別に、普段ではコマーシャルのためにカットされる部分のトークが放送された。
- 4回目(1991年7月13日放送)
- 新橋演舞場での収録回。鶴瓶が1か月間にわたる東京での松竹新喜劇公演に出演したため、讀賣テレビでの収録ができないことによる措置(直前の放送分は新喜劇公演前に撮り溜めしたものを放送)。新橋演舞場の舞台上にて、松竹新喜劇のセットを背景にして収録された。この回は観覧募集はなく、客席には松竹新喜劇の座員はいたが、一般客はいなかった。
- 5回目(1994年8月27日放送)
- 2本撮りの予定であった日に、鶴瓶が食中毒で倒れて出演できなくなり、上岡が1人で出演して1時間喋った回があった。この影響で、その日は1本しか収録が出来ず(1本目に入場する先着順の観客に加えて、2本目に入場するハガキ抽選の観客も急遽スタジオに入れての収録となった)、その翌々週も2本撮りのスケジュールが組まれていたため、翌々週が3本撮りに変更された。しかし3本目の収録が夜遅くになるため、家に帰れなくなる人が出てしまうおそれがあるという問題が発生し、3本目の収録が無観客で行われることとなった。なお、この放送のオープニングトークで、上岡がちょっとしたことで笑う番組スタッフに対し、「我慢するとか、遠慮するとか、空気を考えるとか、周りのムードを読むっちゅうことがでけんのか、お前には!」と本気で激怒した。スタッフの笑い声が入るような、いわゆる「内輪だけの笑い」は、視聴者が見ていて一番不快で面白くないというのが理由であった。
- 6回目(1995年1月28日放送)
- 阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の影響によるもの。俗に言う「怒りのパペポ」。27日放送分(23日収録)は、阪神・淡路大震災直後で「笑わすことができない」ということで二人だけの収録となった。兵庫県在住の被災者(鶴瓶)として、またはテレビを見ていたもの(上岡)として、後手に回り人間的かつ柔軟な対応ができない縦割り行政や、人間としての資質を疑うような言動をするマスメディア(特にテレビ)への怒りを露わにした。なお、オープニングテーマもエンディングテーマも流れず、放映の最後には同系列のチャリティー番組『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への批判まで出ており、後に「24時間テレビ緊急募金」が誕生するきっかけにもなった。
- 7回目(1997年4月5日放送)
- 500回を記念して生放送で行われた。この放送の終盤で上岡が鶴瓶を唆し、生放送であるにもかかわらず放送禁止用語「おめこ」(女性器を意味する大阪弁)を鶴瓶が放送終了直前に言ってしまった。ただし日本テレビを始め、同時ネットされていない局では、その部分だけを自主規制音で被せて放送した。翌々週の放送(翌週の放送分は500回記念生放送前に収録されたため)で、鶴瓶はその発言に対し謝罪した[3]。なお、読売テレビなど同時ネット局は劇空間プロ野球の中継延長で野球中継終了後の編成が20分ずつ後ろ倒しになったため、パペポも2:00スタートになり、2:00 - 2:55での放送となった。
なお通常の放送では、オープニングから最初のCMまでの間とCM明けの座りトークの冒頭約2分間、そしてエンディングの場面でBGMが挿入されるが、無観客の回に限り全編BGMなし(2、3、6回目)、またはオープニングのみ挿入(5、7回目)という形で放送された。
注釈
- ^ ただし、通常の放送枠ではなく日中に放送された。
- ^ 観覧希望者は朝に整理券を受け取り一度解散して、夕方に再集合していた。なお、収録日に関して番組後期はエンディングで日程の案内が表示され、その後讀賣テレビのみローカルで次週の収録の実施と整理券の配布時間の案内が表示されていた。
- ^ こちらは同じ上岡が司会の『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』(フジテレビ)で突然発表された。ただし、1991年の新春SPだけは放送された。
- ^ これは東京タワーに設置してあるアンテナのメンテナンスのため、月・火が早終了のためだった。
- ^ ただし当日のものではなく、原則1週遅れでの放送であった。
- ^ 当然、当該発言は口元、または頭部全体をマル禁(赤地に白枠で丸囲みした「禁」)のスーパーで覆われ、音声もパトカーのサイレンの音でかき消していた。なお、マル禁を使うようになったのは放送開始から1年半が過ぎた1988年秋からで、それまでは音声カットや口の部分を黒く塗り潰す処理だけだった。
- ^ 1回目の新春スペシャル直前に放送されたフジテレビ制作の1987年 - 1988年の回は鶴瓶が総合司会の一員だった。
- ^ 1990年、1993年を除く(1990年は1月最初の通常放送に出演)。
- ^ 前者は「SPECIAL FOUR DAYS」、後者は「名作復活祭」の副題がついていた。
- ^ 1988年新春スペシャル、1988年6月3日放送分を除く
- ^ 読売テレビエリアのみのローカルスポンサーだったため、実質的には同局サービスエリア内の事業を行っていた当時の近畿郵政局がスポンサーだった。
- ^ 広島テレビでは、加美乃素本舗の1社提供または同社を筆頭とした複数社提供での放送だった。
- ^ 1993年4月 - 1994年3月及び1998年1月 - 3月は中止されていた。
- ^ 1988年3月21日 - 27日。
- ^ 1989年10月3日・1992年5月13日。
- ^ 1992年5月25日。武道館でこういったトーク・イベントは初だった。
- ^ 1996年9月28日。
- ^ このときの新聞の見出しには「救急車ピーポーパーペーポー」と書かれていた
- ^ この「長居パニック」は、結局後の「JAPAN TOUR」に決着が持ち越され、大阪城ホールと武道館を含めて上岡が1勝した以外は鶴瓶が全て勝利した。
- ^ 大相撲の約1万人に対し、当イベントは約2万人もの観客が来場した。番組中の公表による数値。
- ^ 当時はヘアヌードの解禁が話題となっていたこともあり、それに便乗したアイデアと言われている。
- ^ アオリは、「初公開! トクオの性日記」「お尻にモグラを飼う男出現。」「スクープ 浪花座に聖徳太子出演か!!!」「悲惨、実父の一家皆殺し計画」「緊急特集 10年後の日本を考える!」「完全独白。ボクのヰタセクスアリス」。
出典
- ^ 日本民間放送連盟編「これぞローカル番組 在阪・在名テレビ10局」『月刊民放』第18巻第7号、日本民間放送連盟、1988年7月1日、13頁、NDLJP:3471031/7。
- ^ “第25回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
- ^ マイケル宮内『笑えるけど超ヤバい! テレビ放送事故&ハプニング』、p110-p111、廣済堂出版、2007年7月、ISBN 978-4-331-51243-2。
- ^ 『北日本新聞』1990年4月2日、1995年9月11日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『テレビ金沢開局10年誌』(2000年3月、テレビ金沢発行)60ページ。
- ^ 『北日本新聞』1997年4月1日付朝刊、テレビ欄。
- ^ a b 出典:山陽新聞1988年10月7日付朝刊24面テレビ欄
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