長州藩諸隊 長州藩諸隊の概要

長州藩諸隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:55 UTC 版)

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歴史

文久3年(1863年)6月、長州藩の軍事体制を強化するため、高杉晋作により、身分を問わない奇兵隊が結成されると、それに触発されて農民町人漁師猟師穢多神官力士僧侶など藩士以外の様々な身分の者からなる義勇軍的な部隊が数多く結成され、その数は百を超えた。同年7月には、差別部落民の軍事登用が初めて令され、遊撃軍の一兵卒であった吉田稔麿が、屠勇隊取り立て方を命じられた。[1]第一次長州征伐の後、この部落民の隊は解体された。第二次長州征伐後、部落民の隊の存在を示す史料はない。[2]

元治元年12月15日(1865年1月12日)、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)すると、奇兵隊、御楯隊など多くの諸隊が呼応して俗論党と戦って勝利し、藩論を尊皇倒幕に導くことに貢献。

慶応元年3月(1865年3月)、長州藩政府は諸隊を整理統合し藩の正規軍として公認。俸給、武器弾薬等を支給して、総定員を1,500名に制限して統制を図った。

慶応2年(1866年)の第二次長州征討に対しては、各方面で幕府軍と戦い、これを撃退する。

その後、倒幕軍の中核として戊辰戦争を通じて活躍したが、戦争終結後、隊員を削減されるなどの冷遇に不満を募らせた隊士らの一部が反乱(脱隊騒動)を起こし、鎮圧されるなどした。

主な諸隊

など

参考文献

  • やすおか史誌編輯委員会編、『やすおか史誌』、下関市安岡合併五十周年実行委員会、1990年。

  1. ^ 布引敏雄 (1980). 長州藩部落開放史研究. 三一書房. p. 264-268 
  2. ^ 布引敏雄 (1980). 長州藩部落開放史研究. 三一書房. p. 276 
  3. ^ a b c 【花燃ゆ維新伝(22)】人材豊富で組織力も団結力も…「長州藩」は薩摩と並ぶ西南屈指の藩 - 産経ニュース 2015年5月10日
  4. ^ 山口市の幕末維新の歴史|幕末の舞台|諸隊の雄・八幡隊結成場所 - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  5. ^ 長州藩諸隊 - 日本大百科全書コトバンク
  6. ^ 【小野田公民館】第2回歴史講座・花燃ゆ編の様子 - 山陽小野田市小野田公民館


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