銀座 (歴史)
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銀座の組織
銀座役所は銀座人が会同し、銀地金の調達、丁銀鋳造の際品位に応じた地金の取組み、および銀貨の幕府への上納など公儀御用を担当した。銀座の運営に携わるものを座人と呼び銀座衆あるいは銀座仲間とも呼ばれた。座人は銀座設立当初頭役と呼ばれた年寄役、大勘定役、戸棚勘定役および戸棚役の役人と平座役から構成されていた。また一代限りの地金鑑定を行う銀見役は準座人としての地位であった。さらに小役人および多数の手代、使用人を抱えていた。
一方、常是は銀座人とは一線を画し自ら銀座惣中と称していた。京都および江戸の銀座では銀座役所と常是吹所および常是屋敷が並置されていた[21]。
銀座の収入
銀座の営業方式には大別して二通りあり、一つは私領銀山などから産出される灰吹銀を買い集めて丁銀を鋳造し一部を運上として幕府に納める自家営業方式、あるいは天領銀山から産出される公儀灰吹銀を銀座が預り丁銀に鋳造して一部を分一銀(ぶいちぎん)として受取る御用達方式があった。分一銀は元来、鋳造に関する諸経費などの入用として支給される性格のものであったが、新産銀が減少し自家営業方式が困難となった元禄期以降は主な収入源となった[22][23]。
慶長銀では分一銀率は鋳造高の3%と定められていたが、この頃は銀の産出が最盛期であったから、より利益率の高い自家営業方式による収入が多かった。江戸時代初期には年間16000貫もの寄銀があったと云う[24]。しかし元禄銀以降は新産銀の産出高は衰退し回収される旧銀の吹替えによる鋳造が主流となり、これは御用達方式に準ずるものであった。分一銀は元禄銀は4%、宝永銀は7%、永字銀および三ツ宝銀は10%、さらに四ツ宝銀は13%と引上げられた。特に永字銀以降の高い分一銀率は、荻原重秀が新銀発行に際し将軍の決裁を得ることなく内々に行ったものであるから、銀座を抱込む思索があったものとされる。元禄、宝永期の銀の吹替えにより幕府に納められた出目は27万貫余に登るが、銀座の得た分一銀も12万貫余にも登った。銀座人らはこの莫大な収入により豪遊を極め、「両替町風」とも呼ばれた。一方四ツ宝銀の発行に至り諸色は著しく高騰し正徳4年9月(1714年)に至り米一石が銀230目に達した[25]。このような行き過ぎた銀の吹替えが正徳期の銀座粛正、荻原重秀の失脚につながったとの見方もある[26][27]。
しかし、正徳銀への吹替えでは分一銀率は慶長銀並みの3%に引下げられ、さらに品位を上げる吹替えであるから出目が得られることもなく銀座は困窮したと云う。さらに当時の流通の主流であった20%の銀を含有する四ツ宝銀2貫目を80%である正徳銀1貫目と引替えたため、不足分は幕府が負担して足し銀せねばならず、吹替高も小額とならざるを得なかった[28]。
分一銀あるいは自家営業方式による利潤のうち、吹高の0.5%分は常是が受け取り、諸経費を除いた利潤が銀座人らに座分配当(ざぶはいとう)として分配された。座分配当の分配方式は慣習により一定の割合で按分されるというもので、銀座年寄らを基準としてこれを一分とし、以下平座役らは一分 = 十歩として年寄役の子は九・十歩、一般の平座役は六歩あるいは五歩(半座)から二歩半(小半)程度、座分の総高は寛文5年(1665年)は455歩であった。また準座人の地位にある銀見役は六歩から二歩半程度であった[29]。
文字銀および南鐐二朱銀では分一銀率が7%に引上げられたが、多くの座人を抱えるようになった銀座は経営が悪化し、次第に上納滞銀が蓄積し明和3年(1766年)には銀8396貫に達した[30]。勘定奉行の川井久敬は明和5年(1768年)に寛永通寳真鍮四文銭を考案し銀座がこの鋳造を請負うこととなったが、これは上納滞銀を幕府に返済せしめる目的もあった[31]。
寛政12年(1800年)の銀座改正以降は銀貨鋳造は幕府の統制が強化された御勘定附切となり、分一銀は勘定所役人管理のもと銀座役所に差し置き、7%のうち半額は産銀買上げ、役人の所入用などに支払われ、銀座分一銀は事実上3.5%となった。座人らには幕府から直接、手当てが支払われることとなった。天保一分銀の鋳造では分一銀率が2.5%になり、天保14年(1843年)の鋳造再開以降は1.6%まで引下げられた[32]。
銀座粛清
寛文期
明暦の大火による江戸城御金蔵の焼損金銀が、江戸城三の丸に集められた大判座、金座および銀座職人らにより吹き直しが行われたが、金銀吹分けにより得られる精金および上銀の目方を誤魔化し不正に利益を得ようとしたため、寛文3年12月25日(1663年)に五人の銀座人らが遠島流罪に処せられた。
銀山からの産出の減少により利益率の高い自家営業方式が衰退する時期にあって、明るみに出た初めての不正事件であった[33]。
正徳期
元禄および宝永の銀吹替えにより銀座が莫大な利益を享受する一方で諸色の高騰、あるいは複数の品位の異なる丁銀の流通により経済は混乱した。
新井白石はこのような悪銀を整理して慶長の幣制に復帰することを目指し、正徳4年5月13日(1714年)には深江庄左衛門ら銀座年寄りが町奉行から御用に召され、直ちに召捕りとなり尽く遠島流罪および闕所を申し渡された。また銀座人であった関久右衛門の奸計により江戸五代目大黒長左衛門常栄を荻原重秀は元禄15年(1702年)に御役召放しとし、代わって関久右衛門が銀吹役を務めていたが、この粛清により関久右衛門は失脚し長左衛門常栄が正徳4年5月に復帰を命ぜられ、銀吹役についた[34]。
寛政期
正徳、元文期より分一銀収入の減少、銀座人の増加により困窮していた銀座は幕府への上納滞銀が増大し、安永9年(1780年)にこのような状況下で相続した江戸八代目長左衛門常房は納滞銀として金に換算して3900両余の不納を咎められ、寛政11年4月(1799年)頃より取調べをうけ、寛政12年7月2日に家職召放しの上、永蟄居を命ぜられた。同年6月には銀座人らは一統引払いを命ぜられ、新規に15人の銀座人が召抱えられ蛎殻町の銀座が始動した。
しかし、上納滞銀による処罰は直接的要因に過ぎず、背景には幕府が寛政の改革の一環として、従来通りの銀座の体制では慢性的な上納滞銀が生じるとして根本的な改正を行い銀貨鋳造事業を請負い形式から幕府の直轄事業すなわち「御勘定附切り」とすることを目指したものであった[15]。
注釈
出典
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p96-98.
- ^ 日本銀行調査局土屋喬雄編 『図録 日本の貨幣』2巻「近世幣制の成立」 東洋経済新報社、1973年
- ^ 田谷(1963), p83-87.
- ^ 田谷(1963), p269-270.
- ^ 小葉田(1958), p174-179.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p287-288.
- ^ a b c 『伏見桃山の文化史』加藤次郎、山本銓吉、1953年、196-197頁。
- ^ 田谷(1963), p124-143.
- ^ 両替年代記(1933), p7-8.
- ^ 田谷(1963), p5-8.
- ^ a b c 『家数間口并裏行改覚帳』(長谷川家旧記)、1672年
- ^ 『京都両替町拝領屋敷届』、1764年
- ^ a b c 『銀座書留』
- ^ 田谷(1963), p8-12.
- ^ a b c d e 田谷(1963), p369-373.
- ^ 田谷(1963), p18-27.
- ^ 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
- ^ 『御用留便覧』
- ^ 田谷(1963), p65-71.
- ^ 『大黒常安覚書』
- ^ 田谷(1963), p3-4.
- ^ a b 田谷(1963), p38-40.
- ^ a b 瀧澤・西脇(1999), p98-99.
- ^ 田谷(1963), p40-43.
- ^ 草間(1815), p573, 816.
- ^ 草間(1815), p572-578.
- ^ 滝沢武雄 『日本の貨幣の歴史』 吉川弘文館、1996年
- ^ 田谷(1963), p277-281.
- ^ 田谷(1963), p53-61.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p98-99.
- ^ 滝沢(1996), p137-138.
- ^ 田谷(1963), p411-418.
- ^ 田谷(1963), p48-53.
- ^ 田谷(1963), 196-197, 213-222, 277-278.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p109.
- ^ a b 瀧澤・西脇(1999), p108-110.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p110-111.
- ^ 田谷(1963), p115-118.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p111.
- ^ 田谷(1963), p392.
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