石徹白騒動 騒動の始まり

石徹白騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/30 13:48 UTC 版)

騒動の始まり

石徹白豊前の画策

石徹白豊前は吉田家から東本願寺への抗議を行わせることに成功するとともに、郡上藩の寺社奉行宛の下知状と同様の書状を出させることに成功した[36]。豊前は京都からの帰りに郡上八幡に立ち寄り、まず郡上藩の寺社奉行である根尾甚左衛門に面会して吉田家からの書状を手渡した。この際、石徹白豊前は根尾甚左衛門に賄賂を渡した[36]。また後年、幕府の評定所で行われた石徹白騒動についての裁判の判決書から、石徹白豊前の賄賂工作は郡上藩寺社奉行に留まらず、郡上藩の大目付である津田平馬、家老職の渡辺外記、粥川仁兵衛にまで及んだことが明らかになっている[37]

石徹白支配のもくろみ

石徹白豊前は宝暦3年(1754年)3月上旬、石徹白に戻ってきた。その直後、郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門は手代の片重半助を石徹白に派遣した。片重半助は石徹白豊前の邸宅に白山中居神社の社人を集め、社人たちは吉田家の支配と石徹白豊前の指示に従っていくべきであることを申し渡し、その旨を記した書状に承諾印を押すように指示した[38]。しかし社人たちは、これまで石徹白は郡上藩寺社奉行の指示にきちんと従ってきたのに、今後は石徹白豊前の指示に従えというのは筋が通らないとして、書状に印を押した社人は一人もいなかった[39]

立腹した根尾甚左衛門は、石徹白六ヶ村の有力社人を郡上八幡に呼び寄せた。そして先に片重半助が示した書状は吉田家の命によるもので、日本全国の神社は吉田家の支配に服するべきものであるのにもかかわらず、その吉田家の命に逆らうとは不届きであるとし、改めて承認の印を押すように命じた[40]。しかし石徹白の有力社人らは、石徹白の白山中居神社の社人はかねてから白川神祇伯に門弟として従っているのであって、今さら吉田家の支配を受けるべきと言われても承服できかねると主張し、改めて文書捺印を拒絶した。そこで郡上藩寺社奉行の根尾は社人らに宿預けを言い渡し、拘束した[35]

石徹白社人の頑強な抵抗が続き、有力社人らは郡上八幡に拘束され続けた。そのような中で郡上八幡の浄土真宗寺院である安養寺の住職、辰了が、石徹白社人側と郡上藩寺社奉行側との仲裁に入り、宝暦3年(1754年)5月初旬、書状捺印の件はひとまず棚上げとすることとして、50日余り拘束されてきた社人らはようやく解放され、石徹白に戻ることができた[35]

吉田家からの下知状

石徹白豊前は宝暦4年(1754年)1月、三名の部下を引き連れ再上京し、吉田家を訪れた。吉田家で豊前は、東本願寺での恵俊の尋問時に豊前を非難した上村治郎兵衛を、石徹白から追放処分にするよう要請したが、吉田家から「神道家は追放などということはすべきではない」とたしなめられた。しかし豊前はこれで諦めることなく要請を繰り返し、宝暦4年(1754年)2月、吉田家から正式な下知状を交付させることに成功した[41]

吉田家から石徹白豊前に対して下された下知状には、「石徹白における神祇道を守るため、もし吉田家の意向に逆らうものがあれば、神職を免ずるべきである。諸事神主(石徹白豊前)の指図を受けるように」。との内容が記されていた[42]。この下知状の中でまず吉田家は石徹白の社人支配の意向を明白に示した点が注目されるが[43]、石徹白豊前が吉田家の権威を背景に石徹白の支配を推し進める根拠となり、中でも最も問題となったのが「吉田家の意向に逆らうものがあれば、神職を免ずるべき」の部分を、石徹白豊前は「吉田家の意向に逆らうものがあれば、追放すべき」と、自らにとって都合が良い拡大解釈を行い、実際、豊前に反対する人々を次から次へと「吉田家の命により」石徹白から追放していき、最終的には大騒動へと発展することになった[44]


注釈

  1. ^ 石徹白豊前については大賀(1980)のように上村豊前とする文献もある。ここでは幕府評定所の判決で用いられ、野田、鈴木(1967)、白鳥町教育委員会(1976)、上村(1984)、高橋(2000)など多くの文献で採用されている石徹白豊前を用いる。
  2. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、桜井大膳の書状は現存しているものは写しであり、また宝暦4年8月の日付が記されているが、これは杉本左近らが幕府寺社奉行に訴状を提出した月と同一であり、訴状の内容がわからない状態でその内容について反論する書状を出したとは考えにくい点などから、更に慎重に検討する必要があるとする。
  3. ^ 白鳥町教育委員会(1976)によれば、後の目安箱への箱訴状などから石徹白から追放された世帯数は96軒程度、また石徹白豊前が幕府評定所での尋問で、追放処分後に石徹白に残った世帯は、頭社人4世帯、平社人40世帯の計44世帯程度と証言しており、96世帯と44世帯を合計すると140世帯、あと外末社人が10世帯あったため、当時の石徹白は約150世帯で構成されていたと推定される。

出典

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