白団
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休戦交渉の推移
1959年9月には、日本の元総理大臣である石橋湛山が私人として中華人民共和国を訪問、周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。周はこの提案に同意し、台湾(中華民国)に武力行使をしないと約束した(石橋・周共同声明)。
1962年、大躍進政策に失敗して国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蔣介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した[1][2]。しかし、全面戦争に発展することを恐れたケネディ政権は国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[3]。その後は1965年に発生した偶発的な東引海戦、東山海戦、烏坵海戦を除き、両岸間での大規模な戦闘は発生していないが[4]、緊張状態は続いている。
台湾海峡以外においても共産党政権はチベットを併合し(1950年)、北ベトナムに対して軍事支援を行うなどの行動を取っていた。
1964年、中国は初の核実験に成功し、大陸反攻は事実上不可能になったが、蔣介石は1975年に死去するまで大陸反攻にこだわり続けた。
外交面ではアジア・アフリカの新興の独立国において中華人民共和国を承認する国が相次ぎ、中華人民共和国は米ソとは立場を異にする第三の大国として浮上した。反対に経済面では中華人民共和国のそれが停滞する一方、台湾はベトナム戦争の特需などにより台湾の奇跡と呼ばれる経済発展を遂げた。
教育
円山軍官訓練団(1950年 - 1952年)
- 普通班
- 普通班は白団が最初に担当した教育課程である。全10期開講され、少尉から少佐までの総勢4071名の学生が修業した。教育内容は歩兵操典を基にした各個教練、戦術、通信、情報、戦史および反共精神等の徹底であった。
- 高級班
- 高級班は大佐以上の者で主に黄埔軍官学校や中央軍官学校出身者を対象とした教育課程である。教育内容は軍戦術を中心に戦術原則、図上戦術、兵棋、情報通信、戦史、高等司令部演習及び後勤教育等が実施された。全3期開講され、総勢640名の学生が修業した。
- 人事訓練班及び聯勤後勤教育
- 現職の軍首脳部や人事関係者を対象とした講義。聯勤後勤教育は特に聯合勤務総司令部(国防部兵站部門)の将校を対象としたもの。人事訓練班の講義は全2期開講され受講者数は各500名。聯勤後勤教育は聯合勤務総司令部の総司令官以下ほぼ全員の約200名が出席し、兵站について学んだ。
- 海軍教育
- 左営の海軍参謀学校において艦艇の操縦法や図上戦術、艦隊演習などの教育を行った。全2期開講され、57名の学生が修業した。
石牌実践学社(1952年 - 1965年)
アメリカ軍の正規軍事顧問団派遣にともない円山から石牌に移転して実施された、高級幕僚教育。“地下大学”と呼ばれた。中佐クラス以上を対象とした聯合作戦研究班12期、少佐クラス以下を対象とした科学軍官儲備訓練班3期の他に戦史班4期、高級兵学班6期、戦術教育班3期が開講された。当時の国府軍の中には“石牌実践学社出身でなければ、師団長以上に昇進できない”という不文律まであった。
陸軍指揮参謀大学(1965年 - 1968年)
白団団員帰国に際し、台湾へ残留することとなった5名によって、指揮参謀大学(校長:蔣緯国)における教育訓練の見直しが図られた。大学の教官を対象とした教官特訓班、副師団長クラスや団長クラスを対象にした戦術推演指導講習班、演習の際の審判(裁判)能力の向上を目的とした裁判人員師資講習班などの教育指導が行われた。
1968年12月、活動を停止。翌年1月に富田団長を除いて全員帰国。2月、東京で解散式。
後方支援
富士倶楽部
白団の教育用カリキュラム作成のため、1952年秋に東京飯田橋に設立された軍事研究所。岡村や及川、小笠原のもと、旧陸軍からは服部卓四郎、堀場一雄、西浦進、今岡富各、榊原正次、都甲誠一、新田次郎、旧海軍からは高田利種、大前敏一、小野田捨次郎、長井純隆などのメンバーが参加し、戦史・戦略・戦術の資料の研究、蒐集や国際情勢、国防問題の分析を行った。蒐集された軍事図書は7千点で、それを基に5千点以上の研究資料が作成された。これらの膨大な資料は台湾にも送られ、白団の教育活動に活用された。また、服部ら富士倶楽部のメンバーも何度か直接台湾に赴き、臨時の講義や国民政府幹部との会見を行っている。1963年ごろまで活動した。
関係者
募兵
- 岡村寧次 (支那派遣軍総司令官、陸軍大将、陸士16・陸大25)
- 澄田睞四郎 (第1軍司令官、陸軍中将、陸士24・陸大33)
- 十川次郎 (第5軍司令官、陸軍中将、陸士23・陸大33)
- 根本博 (駐蒙軍司令官、陸軍中将、陸士23期・陸大34期)
- 小笠原清 (支那派遣軍参謀、陸軍中佐、陸士42)
- 及川古志郎 (軍事参議院、海軍大将、海兵31・海大13)
主要団員
- 富田直亮 (中国名:白鴻亮、陸軍上将(台湾)、陸軍少将(日本)、陸士32・陸大39) : 団長、總教官
- 山本親雄 (中国名:帥本源、海軍少将、海兵46・海大30) : 副団長、副總教官
- 本郷健 (中国名:范健) : 副總教官
- 吉川源三 (中国名:周志澈、陸軍中佐、陸大49)
- 戸梶金次郎(中国名:鐘大鈞、陸軍少佐、陸士47、陸大56優等)
- 岡本秀徹 (中国名:陳萬全)
- 照屋林蔚 (中国名:劉德全)
(照屋敏子の夫、照屋林助、照屋林賢、照屋年之(ガレッジセール・ゴリ)の親戚)
- 中尾一男 (中国名:劉臺源)
- 酒井忠雄 (中国名:鄭忠、陸軍中佐、陸士42)
富士倶楽部メンバー
- 服部卓四郎 (参謀本部作戦課長、陸軍大佐、陸士34、陸大42、戦後第一復員庁史実調査部長)
- 堀場一雄 (陸軍大佐、陸士34、陸大42)
- 西浦進 (陸軍大佐、陸士34、陸大42、戦後防衛研修所戦史室長)
- 高田利種 (海軍少将、海兵46・海大28)
- 大前敏一 (海軍大佐、海兵50、海大32)
- 小野田捨次郎 (海軍大佐、海兵48、海大31)
その他
- ^ 蔣介石侍衛長出書 披露62年反攻大陸歴史,《新浪網》
- ^ 港刊:台軍新書掲秘蔣介石当年「反攻大陸」計画,《人民網》
- ^ 台軍方公佈50年前反攻大陸的絶密“国光計画”,《中華網》
- ^ 八六海戦——成功的対台海上殲滅戦,《人民網》
- ^ 野嶋 2014, p. 180
- 1 白団とは
- 2 白団の概要
- 3 白団結成に至る背景
- 4 休戦交渉の推移
- 5 評価
- 6 外部リンク
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