毛昶熙 毛昶熙の概要

毛昶熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/16 02:32 UTC 版)

河南省武陟出身。1845年進士となって庶吉士に選ばれ、御史、順天府丞を歴任した。1860年から河南省で団練の指揮を命ぜられ、巡撫の厳樹森を補佐して捻軍との戦いにあたった。戦功により順天府尹・太僕寺卿・内閣学士に昇進したが、引き続き軍務にあたった。1862年からはホルチン郡王センゲリンチン(僧格林沁)に従って、山東省・河南省・湖北省安徽省を転戦し、礼部侍郎に昇進した。

1865年にセンゲリンチンが高楼寨の戦いで戦死すると、毛昶熙は北京に呼び戻された。捻軍平定後の1869年に工部尚書・総理各国事務衙門大臣となり、1872年に吏部尚書に異動となった。さらに、1874年翰林院掌院学士、1882年に兵部尚書となった。

死後、太子少保と文達の諡号が贈られた。

出典

先代:
鄭敦謹
都察院漢左都御史
1868-1869
次代:
沈桂芬
先代:
鄭敦謹
工部漢尚書
1869-1872
次代:
李鴻藻
先代:
単懋謙
吏部漢尚書
1872-1878
次代:
万青藜
先代:
李鴻藻
兵部漢尚書
1882
次代:
張之万



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