業 (ジャイナ教)
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科学的解釈
ジャイナ哲学者―僧侶は、近代科学が原子や原子より小さい微粒子の存在を証明する二千年ほど前から、感覚によって捉える事の出来ないほど微細・微視的な微粒子としてのカルマの存在を当然視してきた。しかし、近代科学のような、あるいは別の、発見されるか当然視されるかした元素としての微粒子はカルマの微粒子と同等視することはできない。カルマの微粒子の概念を近代科学・物理学の文脈で説明しようとした著述家もいる。「カルマの微粒子」の概念は未だ証明されていないが、証明のために必要なのは科学が分子や原子の存在を証明できたのは19世紀・20世紀の事に過ぎないことを思い出すことだけだとハーマン・クーンが述べている[93]。こういうことを述べる人々の脳裏からは、こういった「個々の」微粒子すらクォークやレプトンといったさらに微細な構成要素からなるとわずか百年前に主張した人々が忘れ去られているが、この主張は事実である。意識とカルマの物質の相互作用に着目してハーマンがさらに言うことには、心は基本的に物質に影響するという観念が今日科学者集団に受け入れられていることを考えればこれは容易に理解できるという[93]。彼はカルマの物質が科学的に発見されていないということは認めるが、カルマの物質が存在することに反するような科学的事実も発見されていないという意見である[93]。カンティアル・ヴァルディチャンド・マルディアは、著書『ジャイナ教の科学的基礎』で近代的物理学の概念としてカルマを解釈した。そして、微粒子は「カルモン」、つまり、力学的な高いエネルギーを持ち宇宙に充満している微粒子からなると主張している[94]。しかし、大多数の科学者は、カルマや輪廻の理論は検証可能でも反証可能でもないので科学の枠内には入らないと考えている[95]。
- ^ ジャイナ哲学では魂「ジーヴァ」は、この世界に存在する解脱していない霊魂と、解脱してカルマから解放された霊魂の二つに分類される。
- ^ 「ジャイナ教版の最初の『ラーマーヤナ』はヴィマラ・スーリ(Vimala Sūri)によってプラークリットで4世紀に書かれた。」 see Dundas, Paul (2002): pp. 238–39.
- ^ 「ジャイナ教は長年の間叙事詩を使ってヒンドゥー教と対立してきたようだ。16世紀に、インド西部のジャイナ教著述家がジャイナ教版『マハーバーラタ』を書いてヴィシュヌを中傷している。ヒンドゥー教の影響力の強い文書『シヴァ・プラーニャ』(Śiva Purāṇa)によればヴィシュヌは浅瀬を作る者―悪魔をジャイナ教の托鉢生活をするよう転向させ、神が容易に悪魔を打ち倒せるようにした人物のような―をも創造したという。こうしたジャイナ教版『マハーバーラタ』のもう一人の標的としてクリシュナがいる。クリシュナはジャイナ教の初期シュヴェーターンバラ派の信心深い信徒であることをやめ、代わりによこしまで不道徳な策謀家になったというように描かれている。」 see Dundas, Paul (2002): p. 237.
- ^ 「ティールタンカラ」(tīrthaṇkara)という言葉は「浅瀬を作る者」と訳されるが、おおまかには「預言者」あるいは「教師」とも訳される。「浅瀬を歩いて渡る」とは川を徒歩で渡る、横切ることを意味する。つまり、彼らが浅瀬を作る者と呼ばれるのはサンサーラの川を渡る渡し守の役目を務めているからである。 see Grimes, John (1996) p. 320
- ^ ジャイナ教の生物のヒエラルキーは生物を知覚能力に基づいて分類する: 人間や獣のような五感を持つものが頂点に位置し、微生物や植物のような一つしか知覚能力を持たないものが底辺に位置する。
- ^ マハーヴラタつまり五大誓戒に加えて、ジャイナ教の出家者は五大誓戒を補強する付加的な習わしに従う必要がある。その習わしが三つの「グプティ」と五つの「サミティ」である。三つのグプティとは心、言葉、体の自制である。五つのサミティとは運動、発言、食事、物を置くこと、拒絶することの五つを注意深くおこなうことである。
- ^ 調律者・分配者としての神の理論がジャイナ教で否定されていることに関しては、ジャイナ教と反創造論を参照
- ^ 8世紀のジャイナ教文書『アシュタカプラカラニャム』(11.1–8)で、ハリバドラが、苦行や禁欲は苦痛しか生み出さないという仏教の考えを論駁している。彼によれば、苦しみは過去のカルマによるものであって苦行によるものではない。苦行がある程度の苦しみや努力を強いるものであっても、苦行はカルマを除去するための唯一の手段としてなされるべきだと彼は言う。彼はビジネスマンが自分を幸せにする利益を得るために痛みや努力を引き受けることと苦行とを比較している。ビジネスマンの場合と同様に、解脱を求める修行者にとっての苦行や禁欲も至福なのである。 Haribhadrasūri, Sinha, Ashok Kumar, & Jain, Sagarmal (2000) p. 47を参照。
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