松尾城 (日向国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 03:42 UTC 版)
歴史
文安元年(1441年)から土持宣綱が築城にかかり、文安3年(1443年)に西階城から居城を移したという[1]。以後、土持宣綱・全繁・常綱・親栄・親佐・親成の6代134年間、縣土持氏の本城として機能した。
天正6年(1578年)4月10日、大友宗麟・義統により落城して縣(延岡)は大友領となるが、同年11月9日から同12日の「高城川原の戦い」(正確には小丸川の戦い、通称では耳川の戦いと言われることが多い)で島津氏が勝利した後に島津領となった。同14日には土持氏は島津氏へ被官し(「川上久辰耳川日記」 / 「都城島津家文書」)、天正7年(1579年)からの9年間、島津義久配下の縣地頭として土持高信[2]がこの城に在番した(『上井覚兼日記』)。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉の九州仕置により豊前国香春岳城から17歳の高橋元種が入城し、慶長8年(1603年)秋に縣城を築城して移るまでの15年間在城した。この時期には、この松尾城を「縣城」と呼ぶ史料もみられる。
一方、現代においてはこの城を延岡城と誤認した記述の間々見られることがあるが、これは全くの誤りである[3]。この縣地域の呼称としての延岡地名の使用は、近世縣城(現在の城山)の修築完成を記念して、有馬康純が明暦2年(1656年)に今山八幡宮に寄進した梵鐘(若山牧水に詠われた「城山の鐘」)の銘文「…明暦二年丙申六月吉日…日州延岡城主有馬左衛門佐…藤原朝臣康純」を初見としており、さらには、江戸幕府の公文書で正式に延岡藩としての記述が見られるのは、有馬氏の次、三浦明敬支配の元禄期以降のことである。したがって、現在の延岡市本小路にある高橋元種築城の近世縣城は後に延岡城と呼ばれるが、その前のこの松尾城(縣城)が延岡城と呼ばれたことは、史料的には歴史上一度もない。
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