新羅征討計画
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推古朝の新羅征討
日本書紀によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に3度、計画され、1度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している[1]。
第1次新羅征討
1度目は推古8年(西暦600年)2月で、任那を救援するために新羅へ出兵した[1]。蘇我氏の一族である境部摩理勢(境部臣)が征新羅大将軍に任命され、副将軍は穂積祖足(穂積臣)であった[1]。五つの城が攻略され、新羅は降伏した[1]。さらに、多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の6つの城が攻略された[1]。難波吉士神(なにわのきしみわ)を新羅に派遣し、また難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)を任那に派遣し[1]、両国が倭国に朝貢を約させた[1]。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した[1]。
翌推古9年(601年)3月には、大伴連囓(おほとものむらじくひ)を高麗(こま)に派遣し、坂本臣糠手(さかもとのおみあらて)を百済へ派遣し、任那救援を命じた[1]。
推古9年(601年)9月8日、新羅の間諜(うかみ。スパイのこと)である迦摩多(かまた)が対馬に上陸したところ、捕えられて、上野国に送還された[1]11月5日、新羅への第二次征討計画が図られる[1]。
第2次計画
推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟来目皇子が征討将軍として軍2万5千を授けられる[1]。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営した[1]。6月3日、百済より大伴連囓と坂本臣糠手が帰国する[1]。しかし、来目皇子が病を得て新羅への進軍を延期とした。なお、10月に百済の僧侶観勒が倭国に訪れる。
来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌推古11年(603年)2月4日、筑紫にて薨去[1]。来目皇子は、周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯し、土師猪手がこれを管掌した[1]。
第3次計画
推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が征討将軍に任命される[1]。推古11年(603年)7月3日、難波より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の舎人皇女が明石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた[1]。
- 1 新羅征討計画とは
- 2 新羅征討計画の概要
- 3 推古朝の新羅征討
- 4 藤原仲麻呂による新羅征討計画
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