戦災復興院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 17:37 UTC 版)
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敗戦から約2か月後の1945年(昭和20年)11月5日、幣原喜重郎内閣により小林一三国務大臣を総裁として設置された。発足時には東京・芝の、鞆絵(ともえ)国民学校(現在の港区立御成門小学校)の校舎を間借りし、内務省国土局計画課などの技官ら約140名が集められた[1]。
復興院の設置目的は、戦災地における市街地計画、住宅の建設及び供給、戦災地の土地、物件の処理を推進、その他各省が進めている施策と並行して罹災者の救済、戦災地の復興に当たるものと多岐にわたり、可及的速やかに復興省に昇格するものと見られていた。初代総裁となった小林一三は、就任の会見で「私の命ぜられた第一の要件は、戦災者にできるだけ早く安定した家屋を提供することだ」と語ったが[2]、後述するように成果は都市計画に係るものに集中し、偏ったものとなった。
戦災復興計画基本方針
内務省の計画課長だった大橋武夫の主導のもと、復興院の成立から2か月足らずの短期間のあいだに完成し、閣議決定された[1]。
敗戦前年の1944年(昭和19年)9月、敗戦の可能性を察知した大橋は、「勝っても負けても日本の復興は必要」と、都市の復興計画の作成を密かに部下に命じており、このため、計画の骨子は敗戦時に既に出来上がっていたという[1]。
計画は画期的かつ水準の高いもので、車社会の到来を予想したうえで、主要幹線道路の幅員は大都市では50メートル以上、中小都市でも36メートル以上とし、更に必要な場合には緑地帯と防火帯を兼ねた100メートル幅での道路建設を促した。また、都市公園の拡充を考え、緑地面積の目標を市街地面積の10%以上としていた[1]。
戦災都市として指定されたのは全国の115都市で、復興事業へはその費用の9割を国庫補助するという極めて積極的な財政措置が取られた[1]。
計画の実施と実際
1949年(昭和24年)、ドッジ・ラインに基づく緊縮財政が実施されると、戦災復興計画の再検討が閣議決定された。これにより復興事業は大幅に縮小され、国庫補助も5割まで減ぜらたうえ、1959年に打ち切りとなった[1]。
最終的には、当初計画された全国で24本の100メートル道路のうち、実現したのは名古屋の2本と、広島の1本のみであった[1]。また、敗戦時に焼け残っていた、全国で8,000ヘクタールに及ぶ木造住宅密集地域は復興計画の対象とならなかったため、再整備が遅延することとなった[1]。
廃止
戦災復興院は、1947年(昭和22年)12月31日に内務省が解体されるまで存在した。翌年1月1日、旧内務省国土局と統合されるかたちで、「建設院」となり、その後建設省となった。
現在国土交通省の市街地整備課が、戦災復興院の系譜を最も継いでいる部署である[1]。
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