小ドイツ主義 経過

小ドイツ主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 15:13 UTC 版)

経過

1848年のフランクフルト国民議会で、ドイツ統一の方針をめぐり、オーストリアに居住するドイツ人を含めてドイツ統一を推進しようとする大ドイツ主義と、オーストリアに居住するドイツ人を除外したドイツ統一を図る小ドイツ主義が対立した。当初は、大ドイツ主義が優勢であり、1848年10月末にフランクフルト国民議会において圧倒的多数で決議された統一方針も大ドイツ主義に基づくものであった。

しかし、複合民族国家としての枠組みを保とうとするオーストリア帝国は、大ドイツ主義により自帝国が民族的に分離することを望まないため、この国民議会と敵対する姿勢を鮮明にした。三月革命による自由主義勢力の台頭も一時的なものにとどまり、オーストリア首相・フェリックス・シュヴァルツェンベルクは、オーストリア帝国の一体性を強調しており、国民議会で大ドイツ主義を討議することは非現実的となった。その結果、フランクフルト国民議会の議長も大ドイツ主義的な人物から小ドイツ主義的な人物へと交代し、プロイセン主導による小ドイツ主義に基づく統一が模索された。しかし、議会主導の自由主義的なドイツ統一を望まないプロイセン国王は議会との協調を拒否したことから、フランクフルト国民議会によるドイツ統一の試み自体が行き詰まり、国民議会は活動停止に追い込まれた。

のちにプロイセンは宰相オットー・フォン・ビスマルクのもとで鉄血政策による武力統一を推進した。統一ドイツの主導権を握るためにオーストリアを除外して統一が果たされたため、結果的には小ドイツ主義に基づいてドイツ帝国が成立することになった。

関連項目




「小ドイツ主義」の続きの解説一覧




小ドイツ主義と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小ドイツ主義」の関連用語

小ドイツ主義のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小ドイツ主義のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの小ドイツ主義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS