安藤為章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 16:06 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動生涯
伏見宮に仕える安藤朴翁の次男として丹波国桑田郡(現京都府)に生まれる[1]。儒学を伊藤仁斎に、和歌を中院通茂に学ぶ。兄の為実とともに最初は伏見宮に仕え、後に2人とも水戸藩の徳川光圀に招かれて彰考館の寄人となり『大日本史』『礼儀類典』『釈万葉集』の編纂に従事した。光圀の命令で契沖のもとに万葉集の註釈を教わりにたびたび出かけることとなり、ついには契沖の門人となる。水戸藩から家禄を加増する命があったが、実子がないことを理由にこれを断り、養子もとらず家が絶えた。伴蒿蹊は「人のなし難き所にして、吾が天を安んずるの節義称すべし」と評す。
著作
参考文献
- 1 安藤為章とは
- 2 安藤為章の概要
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