北里柴三郎
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人脈
恩師・知友
以下は北里研究所誌より[60]。
- コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト - オランダ予備海軍軍医。オランダ館の医師として来日。1866年から1870年まで徳川幕府の依頼で長崎医学校の前身の精得館で教鞭をとり、1871年から3年間、熊本の医学校で教鞭をとった。北里はマンスフェルトに呼ばれて特別な教育を受け、2年目からマンスフェルトの講義の通訳を務め、講義録を作成した。後年、北里が有名になって母国に帰ったマンスフェルトに会っている[61]。
- ロベルト・コッホ - 世界的な細菌学者で北里の恩師。1908年に来日したときは、明治天皇、森鴎外、北里などから国家的歓待を受けている。鎌倉にコッホ碑、北里大学白金キャンパス敷地内にコッホ・北里神社がある。
- 福澤諭吉 - 北里のために「伝染病研究所」を建て、その運営のために結核専門病院である「土筆ヶ丘養生園」を建てた。また、伝染病研究所の近所に自らの子息の1人を住まわせた。
- 森村市左衛門 - 福澤諭吉の求めに応じて私立伝染病研究所に多額の寄付をした。
- 長與專齋 - 長崎でマンスフェルトに師事したため北里の先輩にあたる。文部省および内務省の医務局長として活躍した。北里が最初に就職したときに世話になった。
- 長谷川泰 - 内務省医務局長を経て衆議院議員。伝染病研究所問題に関与した。
- 後藤新平 - 医師。内務省に入ったのは北里の3か月前。ライバルであったが、コッホより北里に師事するようにいわれ、親しくなり終生の友となる。内務省衛生局長、東京市長を歴任。
- 清浦奎吾 - 同郷の政治家。首相を務める。政治的に北里の後ろ盾となる。
- 徳富蘇峰 - 同郷の文学者。郷土の北里の胸像の文字は徳富による。
- 山根文策 - 北里の東大の同級生。横浜十全病院の院長であったが、土筆ヶ丘養生園の診療に加勢。長女を北里の次男に嫁がせている。
- 隈川宗雄 - 北里の東大の同級生。生化学教授。
- 荒木寅三郎 - ドイツ留学中に知り合う。北里が学費の援助をした。長い間協力関係があった。
- 塩原又策 - 三共株式会社の創始者。
- 高峰譲吉 - アドレナリンの発見者。手紙で情報の交換を行う。
- 木下謙次郎 - 食通仲間。北里は木下の「美味求真」の序文を書いている。
- ルイ・パスツール - 1892年、北里は帰国に際し、パスツールに会いに行っている。有名な細菌学者であるが、ドイツ語ができなかったためコッホとの確執が生じた。
- パウル・エールリヒ - 北里の兄弟子。1908年、免疫学でノーベル生理学・医学賞を受けている。
- エミール・アドルフ・フォン・ベーリング(1854 - 1917) - 北里との共著で1901年第1回ノーベル生理学・医学賞を受けている。
- ほかにゲオルク・ガフキー、ウィルヘルム・レフレル、アウグスト・フォン・ワッセルマン、ウィリアム・ウェルチ、イリヤ・メチニコフなどと文通がある。
後進の育成
- 石神亨(1857 - 1918) - 北里の熊本医学校時代の同輩。慈恵病院を経て、海軍軍医、北里の伝染病研究所でツツガムシ病、結核、ペストを研究。北里を助けた。
- 梅野信吉(1862 - 1930) - 獣医。1899年、国立伝染病研究所に入所。ジフテリア免疫血清を作るなど活躍した。
- 高木友枝(1858 - 1943) - 北里の東大時代2年後輩。伝染病研究所の助手。ペスト調査団として北里と石神が香港に派遣されたが、石神が発病したため香港に派遣された。その後、台湾の電力会社社長になる。
- 浅川範彦(1865 - 1907) - 高知医学校、済生学舎を経て医師開業試験に合格。ドイツ語を勉強した。伝染病研究所に入所。ツツガムシ病、破傷風を研究、欧米に先駆けて腸チフス診断液を作ったが、42歳の若さで他界した。
- 北島多一(1870 - 1956) - 東京大学卒業。伝染病研究所に入所。ドイツ留学ではベーリングのもとで研究し、帰国後、ハブ血清療法を研究。北里研究所、慶應義塾大学医学部、中央衛生会、日本医師会、済生会などすべて北里の跡を継ぎ、その長になっている。
- 志賀潔(1871 - 1957) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。赤痢菌を発見。エールリヒのもとで研究。トリパノゾーマ原虫と色素を用い、エールリヒが考えていた化学療法が有効であることを証明した。
- 秦佐八郎(1973 - 1938) - 岡山の医学部を卒業。伝染病研究所に入所。ペストを研究。ドイツではワッセルマンのもとで免疫学を研究。有功なサルバルサンを発見。
- 野口英世(1876 - 1928) - 済生学舎で勉強。医師開業試験に合格。1898年、伝染病研究所に入所。ペスト患者を発見、ペスト菌を確認し、ペストの蔓延を防いだ。アメリカに留学を希望した際、北里は知友5名宛ての紹介状を書いた。最初は臨時職員であったが、北里に礼状を書いている。ペンシルベニア大学のサイモン・フレクスナーのもとで業績を上げ、正規職員になっている。
- 宮島幹之助(1872 - 1944) - 医学から動物学に転向。国立伝染病研究所に入所後、マラリア、ツツガムシ病、日本住血吸虫、ワイル氏病を研究した。国際アヘン中央委員会委員、代議士としても活躍した。
- 高野六郎(1884 - 1960) - 医師。国立伝染病研究所に入所。補体作用における特殊なメカニズム、コレラ菌と腸チフス菌の菌体毒素と菌体成分、サルバルサンなどを研究。北里研究所創立に参加。慶應義塾大学医学部教授。厚生省予防局長。北里研究所の第3代所長を務める。
- 大谷彬亮(1880 - 1939) - 京都大学卒業。国立伝染病研究所、ドイツ留学。北里研究所内科部長。慶應義塾大学内科教授。養生園園長勤務。
- 後藤格次(1889 - 1969) - 東京大学農学部出身。国立伝染病研究所、北里研究所で研究。サルバルサンの国内製造を目指して成功。
- 小林六造(1887 - 1969) - 京都大学出身。伝染病研究所に入所。破傷風血清、淋菌ワクチンを研究。慶應義塾大学教授。国立予防研究所所長。らい研究所長を務める。
- 古賀玄三郎(1879 - 1920) - 京都大学出身。伝染病研究所に入所。結核のチアノクプロール療法を創始。
- 柴山五郎作(1871 - 1913) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。コレラとペストを研究。
- 照内豊(1873 - 1936) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。医化学を研究。脚気ビタミンの研究で知られる。
- 肥田音市(1880 - 1954) - 済生学舎出身。国立伝染病研究所でジフテリアを研究。
- 草間滋(1879 - 1936) - 東大卒業後病理学を専攻。ドイツ留学ではフライブルク大学で勉強。北里研究所部長。1919年より慶應義塾大学病理学教授。多くの俊英が集まった。
- 田端重晟(1864 - 1945) - 結核病院養生院の事務長。蓄財をよくし、北里研究所の設立に役に立った。
- 緒方収二郎(1857 - 1942) - 緒方洪庵の6男。養生園の医師。
- 田尻寅雄(1866 - 1947) - 第五高等中学医学校卒後、養生園・伝染病研究所助手として細菌学を研究。回春病院初代院長。
注釈
- ^ 前列左より河本重次郎、山根正次、田口和美、片山國嘉、石黑忠悳、隈川宗雄、尾澤主一[9]。中列左から森林太郎、武島務、中濱東一郎、佐方潜蔵、島田武次、谷口謙、瀬川昌耆、北里、江口襄[9]。後列左から濱田玄達、加藤照麿、北川乙治郎[9]。
- ^ 財団のウェブ・ページのエミール・ヴォン・ベーリングのBiography[1]には柴三郎の名が共同研究者として記述されている。
- ^ ノーベル財団の資料 (Mahatma Gandhi, the Missing Laureate) には、「1960年までノーベル平和賞はほぼ排他的に欧米人に与えられた」と記述されている(ただし「人種差別が原因」とは記していない)が、生理学・医学賞については特にそのような言及はない。
- ^ 北里はドイツ留学中に森と交友関係を結び、森は北里の紹介によりコッホに面会しているが、脚気感染症説を巡って2人は対立することとなる。なお北里は森の2年後輩に当たるが、両者は共に医学校予科の入学の際に年齢詐称をしたので、北里の方が10歳年長であった[13]。
- ^ 「一、大学部本科各科ニ学長一名ヲ置ク」[16]
- ^ 大村によると11月とある[18]。
- ^ 大村によると帰国は1892年(明治25年)5月28日。11月、内務省医務局に復職。1892年(明治25年)10月、福澤諭吉、森村市左衛門の援助を受け芝公園内に私立伝染病研究所を設立。11月30日、大日本私立衛生会の委嘱を受け伝染病研究所の所長に就任。1893年(明治26年)9月、日本最初の結核サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」(北里研究所病院の前身)を設立[18]。
- ^ 北里のほぼ同じ成績が1907年の増田勇の著書に引用されている[51]。
- ^ ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner) の意。
- ^ 1885年の業績までは内務省時代である。
出典
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- ^ “北里柴三郎: 感染症予防と治療のパイオニア”. nippon.com. (2020年9月3日) 2020年11月29日閲覧。
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- ^ a b “青年期の北里、地元で教師”. 共同通信 (2022年5月27日). 2022年5月27日閲覧。
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- ^ 原邦道『人事興信録. 第14版 下』(人事興信所, 1943)pハ105
- ^ 椎野正兵衛商店会社概要
- ^ 北里柴三郎『人事興信録. 第8版(昭和3年)』
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- ^ 北里柴三郎 近代名士家系大観
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