八百屋お七 郷土芸能の題材としての「八百屋お七」

八百屋お七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 08:54 UTC 版)

郷土芸能の題材としての「八百屋お七」

天和笑委集では、物語の後日談としてお七と庄之介の話が全国津々浦々に伝わったとしている。天和笑委集の成立自体がお七の死後数年以内なので八百屋お七の事件の噂話はたちまちのうちに全国に伝わったことがうかがえる。これらは中央の文芸作品の影響を受けながらも各地でさまざまに形を変え、お七の恋物語は郷土芸能の題材として全国各地にさまざまな形で伝承されている。二松学舎大学教授で国文学専攻の竹野静雄が1986年にまとめた調査でも全国38都道府県で八百屋お七を題材にした郷土芸能が確認され、昭和まで伝承されなかったものを含めると沖縄を除くほぼ全国に八百屋お七を伝承する郷土芸能があったものと思われる[47]

郷土芸能としての「八百屋お七」は歌祭文・覗きからくり節・盆踊歌・飴売り歌・願人・祝い歌・労作歌・江州音頭やんれ節などが確認される。とくに八百屋お七盆踊り歌は昭和ですら保存されている件数が多く、またその内容も多くの系列があり、かつては全国いたるところで歌われていたものと考えられている[47][48]

覗きからくり

覗きからくり節[注 17] では八百屋お七はよく演じられる演目の一つであり、各地の自治体でその保存活動や紹介活動が行われている[49][50][51]新潟市の巻郷土資料館では、約100年前の八百屋お七の覗きからくりを保存し、館員による口上付きの公演も随時行っている[52]

「お七」作品における登場人物とモチーフ

八百屋お七物語は多くの作家がさまざまな作品を提供している。お七とお七の恋人を除いては作品ごとに登場人物は異なるものの比較的登場することが多い人物について述べる。もちろんこの節で述べる登場人物像は各作家の設定した人物像であって、史実とは無関係である。

歌川豊国 寺での吉三郎とお七の出会い 右に下女お杉がいる。 吉三郎は菱型の吉の字の紋、お七は丸に封じ文の紋

恋人

恋人の名は 天和笑委集では生田庄之介[19] 好色五人女では小野川吉三郎[16]、近世江戸著聞集では山田左兵衛[10]、紀海音では安森吉三郎[27]、現代の歌舞伎「櫓のお七」では吉三郎[35]、松田定次監督の映画『八百屋お七 ふり袖月夜』(1954年公開)[53] では生田吉三郎とさまざまである。前述したように、『近世江戸著聞集』の作者である馬場文耕は自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言う[10] が、しかし『近世江戸著聞集』はほぼ虚構である事が立証されているので[1]、吉三郎とするものが多いのは恐らくは西鶴と、西鶴を下地にした紀海音の影響力であろうとされている[8]

恋人の身分は初期の作品ではあまり高くはなく、西鶴では吉三郎は浪人で兄分(同性愛の恋人)がいる[注 18][54]。天和笑委集でも生田庄之介の身分はそれほど高くはないので[注 19] お七に高い身分の男との結婚を望んでいる両親にお七は生田庄之介との交際を言い出せない[9]。しかし、紀海音が吉三郎を1000石[28] の名の知れた武士の息子、親の忠実な家来の十内が親の遺言を守らせに来るように設定してからは[27]、浄瑠璃や歌舞伎では身分の高い武士の子とされる[55]。文耕の近世江都著聞集では恋人(山田左兵衛)の親は2500石の旗本である[10]。現代の歌舞伎では吉三郎は武家の中でも身分が高い家の子で八百屋の娘とは身分が違いすぎて結婚の対象ではないことにされる[30][38]

下女

八百屋で働く下女の名は天和笑委集では「ゆき」[19]、紀海音の浄瑠璃や現代の歌舞伎では「杉」[27][30][38]。八百屋の下女は二人の恋の仲を取り持つ役割で[19][27]、火の見櫓に登るお七の設定では宝刀を武兵衛のもとから取り返してくる役割をはたす[30][38]。「火の見櫓の場」では吉三郎は直接登場しないので、八百屋の下女はお七に次いで重要な登場人物になる[38]

お七の父の名も作品によってさまざまである。天和笑委集では市左衛門[19]、好色五人女では八兵衛[16]、近世江戸著聞集では太郎兵衛[10]、紀海音では久兵衛[27]、落語では久四郎[44] と作品ではそれぞれが違う。お七の父の名前も素性もうかがい知ることはできないが、江戸災害史研究家の黒木は加賀藩邸(今の東京大学本郷キャンパス)がすぐ近くであったことからお七の家は加賀藩出入りの商人の可能性を指摘している[56]

十内と武兵衛

紀海音が浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』で考案した2人で、お七の恋の邪魔者(もちろん、実在人物ではない)。吉三郎の実家の家来で忠実・生真面目な侍ゆえに吉三郎の行動に枠をはめたがる十内[注 20] と、お七に恋心を抱き金の力でお七を我が物にしようとする金持ちの町人武兵衛(万屋武兵衛や釜屋武兵衛など)の2人はその後の浄瑠璃、歌舞伎でもお七・吉三郎の恋の障害になる人物と設定される。現代に上演されることが多い歌舞伎・松竹梅湯島掛額でもその設定は変わらない[8][29][38]。ことにお七と吉三郎・武兵衛の三角関係は浄瑠璃・歌舞伎以外の作品にも取り入れられることが多い[8]

役人

お七を裁く役人は小説や落語などでは登場することが多く、現代の歌舞伎などでは登場しない。

中山勘解由

中山勘解由[注 21] は史実では先手頭で天和3年正月23日に火付改[注 22] に着任[57]。 お七の放火事件がおきた天和3年3月には、史実としてはこの人物が放火犯の捜査・逮捕の責任者である。中山勘解由は容疑者をかなり厳しく取り調べ、この人物が着任している間は放火の罪で処刑される人数が増加している。海老責という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も多かったであろうと推定されている[58]

しかし史実とは反対に八百屋お七の物語ではお七の命を何とか救おうと努力する奉行として登場することが多い人物で、文耕の『近世江戸著聞集』のなかでもお七の年齢をごまかして助けようとする奉行中山殿の名前が出てくる。文耕ではお七の年をごまかした事を悪党の町人吉三郎に糾弾され、大身の旗本で重責を担う立場にありながら吉三郎と真剣に口論し、吉三郎に論破されてしまう[10]

狩野文庫『恋蛍夜話』では奉行中山勘解由はお七に「火付けはしてないな?」と聞き、もしもお七が「はい」と答えたら助けるつもりが、お七が正直に「火を付けた」と答えてしまったために仕方なく火あぶりにせざるをえなくなったとしている[2]。落語でも土井大炊頭の意を汲んでお七の年齢をごまかして助けようとするがお七自身にその意図を無にされる[43]。ただし、中山勘解由がまだ存命中に書かれた最初期のお七の伝記である天和笑委集ではことの次第ではお七の命を救ってもいいと思っている奉行が登場するが、天和笑委集では奉行の個人名は出していない[19]。また同じく最初期の作品である西鶴の好色五人女では奉行は登場しない[16]

尚、お七の事件の数年前の延宝8年(1680年)、『江戸方角安見図』では中山勘解由配下の組屋敷は本郷(今の東京大学本郷キャンパスの農学部と工学部・法学部の通りに面した最西側部分)にあり、お七の家の至近にある[59][60]

町奉行

史実ではお七の事件時天和3年3月、甲斐庄飛騨守正親が南町奉行を務め、北条安房守氏平が北町奉行を務めている[61]

大谷女子大学教授の高橋圭一はお七の時代の火付改役は犯人の逮捕と奉行所への送付が仕事で裁判は町奉行所の仕事のはずであり、前述の中山が判決まで下したと言う各種の作品は創作であろうとしている[2]

文芸作品によっては八百屋お七物の登場人物として、南町奉行甲斐庄正親[62] や北町奉行北条安房守氏平[63] がお七の裁きの奉行を務めることがある。彼らも本音ではお七の命だけは助けてやりたいが、お七が正直に自白してしまったのでやむなく定法通り火あぶりにする奉行、と設定されることが多い。

土井大炊頭利勝

史実では家康・秀忠・家光の三代に仕えた武士で、江戸幕府の老中・大老までつとめた古河藩16万石の大名(1574-1644)[64]。お七の事件の約40年前に亡くなっているので、史実でお七と絡むことはありえないが、馬場文耕の『近世江都著聞集』や文耕を参考にした物語、落語などでは奉行に命じてお七の年齢をごまかして何とかお七の命を救おうとする人物として登場する[2][10][43]

衣装

麻の葉文様 お七の衣装にはこの文様が入ることが多い
麻の葉文様段染め、お七の着物でよく使われる絵柄と色である。実際の着物では模様は直線ではなく鹿子柄やさらに複雑なデザインになる

宝永3年(1706年)に八百屋お七を演じた初代嵐喜世三郎が「丸に封じ文」紋をつけた衣装で可愛らしいお七を演じて評判になり以降「丸に封じ文」紋がお七の紋として定着する[65]文化6年(1809年)『其往昔恋江戸染』で八百屋お七役の歌舞伎役者の五代目 岩井半四郎が麻の葉段鹿子の振袖を着たことから大流行し麻の葉文様は若い娘の代表的な着物柄になり[66][67]、五代目 岩井半四郎以降は歌舞伎や文楽でもお七の櫓の場では麻の葉の段の振袖が定番になっている[65][67]。八百屋お七のパロディでもある三人吉三でも、お嬢吉三の衣装は「封じ文」と似て非なる「結び文」紋と櫓の場での衣装は麻の葉段鹿子染めであり[65]、最初に提示した月岡芳年の八百屋お七の絵でも一部に麻の葉の鹿子柄が見える。

平成21年の歌舞伎座公演『松竹梅湯嶋掛軸』の「櫓の場」ではお七と下女お杉二人の前半ではお七の衣装は黄八丈格子縞の町娘の普段着風の着物、お杉が退場しお七一人(と黒衣)の人形振りの場の途中から早変わりで着物が浅葱色と紅色の麻の葉の段鹿子の振袖に変わる[38]。そのように現代の歌舞伎舞踊では前半は黄八丈の町娘の普段着風、それが櫓の場の見せ場では麻の葉の段鹿子の振袖に変わることが多い[68]

文学では西鶴は避難した先の寺でお七に貸し与えられた振袖を黒羽二重の大振袖、桐と銀杏の比翼紋で紅絹裏の裾を山道形にふさをつけ色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香の薫もまだ残っているとしている[16]

天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされているお七には「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と豪華な装いをさせている[19]

遺言

創作として何人かの作家達はお七に遺言をさせている。

紀海音は「八百屋お七恋緋桜」のなかでお七の遺言として『ゆしまにかけししやうちくばい 本こうお七としるしをく。十一才の筆のあと見し人あらばわたくしの。かたみと思ひ一へんの御ゑかうたのみ奉ると。』としている。[69]。(意訳 (私が11歳のときに)湯島(の寺)にかけた松竹梅の額に本郷お七と書きました。私の十一才の筆跡を見た人がいらっしゃいましたら私の形見と思って一片の供養をしてやってください。)歌舞伎や浮世絵で八百屋お七の題に「松竹梅湯島掛額」とつけているものがある。

井原西鶴は、死出のはなむけに咲き遅れの桜の枝を渡されたお七の辞世として『世の哀れ春ふく風に名を残しおくれ桜の今日散し身は』としている[16]

お七の年齢と裁判制度

現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだった」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。人情話としては面白いが専門家からは疑問が呈されている設定であり、またこの設定は西鶴などの初期の八百屋お七物語には見られない[70]

放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島(島流し)にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定[70][71] は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある[注 23]

最初期のお七の伝記である西鶴の『好色五人女』の八百屋お七物語では裁判の場面はない[16]。『天和笑委集』では裁判の場面はあるがお七の年齢を詮議する記述はない[19]。1715-16年の紀海音の『八百屋お七』や1744年為永太郎兵衛『潤色江戸紫』でもお七を裁く場面はない。しかし、お七の事件から74年後の馬場文耕の『近世江都著聞集』では裁判の場面が大きく取り扱われ、お七の年齢を15歳以下だと偽って助けようとする奉行が登場するようになる。馬場文耕の『近世江都著聞集』は後続の作家に大きな影響を与え、これ以降の作品ではお七の年齢の扱いで生死を分けることにする作品が続出してくる[注 24]。馬場文耕の『近世江都著聞集』には史実としてのリアリティはまったく無いが、講釈師文耕ならではの創作に満ち溢れ、お七の年齢詮議の話も文耕の創作であろうとされている[70]








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