ユトランド沖海戦 背景

ユトランド沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 03:55 UTC 版)

背景

開戦からの動き

第一次世界大戦の開戦以来、英国海軍の「大艦隊」Grand Fleet(グランド・フリート)(1914年8月本国艦隊を戦時編成により改編。司令長官はジェリコー大将)はオークニー諸島スカパ・フローを根拠地とした。ビーティー率いる巡洋戦艦部隊はフォース湾奥の要塞基地ロサイスを根拠地として、「大艦隊」とは独立して軍令部から指揮を受けていた[3]

ジェリコーは「静かなる男(サイレント・ジャック)」の異名を持ち、論理的すぎる提督でもあった。ジェリコーは「大艦隊」をむやみに出撃させることはなく、現存艦隊主義を取り、敵の大洋艦隊の殲滅を必ずしも追求しなかった。イギリス海軍の規模は、国力が劣るドイツの大洋艦隊を戦闘が無くとも抑え込んでいたからである[4]

これに対するドイツ海軍大洋艦隊司令長官フリードリヒ・フォン・インゲノール大将は、皇帝ヴィルヘルム2世が軍令部を通じて作戦に口を出しており、思い通りに艦隊を動かすことができなかった。それでも彼は与えられた権限の中で戦力を可能な限り有効に使うべく、ヒッパー提督の偵察部隊(巡洋戦艦部隊)でイギリス本土を砲撃し、イギリス国民の士気を挫く作戦を行った。1914年11月と12月に行われた2回の出撃は成功し、沿岸都市に損害を与えた。しかし1915年1月に行われた3回目の出撃では、ビーティー率いる巡洋戦艦部隊が待ち伏せしており[5]ドッガー・バンク海戦が発生した。この海戦ではドイツ部隊は装甲巡洋艦ブリュッヒャーを失いつつも脱出に成功し、英艦隊は旗艦ライオンが脱落した[6]

インゲノールは責任をとり、1915年2月2日に職を辞した。またドイツ海軍はこの海戦以降1年ほど北海では大きな動きを止めた代わりに、潜水艦による通商破壊戦を強化したが、1915年5月にルシタニア号事件が発生してこれも一旦中止した。バルト海ではドイツ艦隊が露国バルト海艦隊リガに封じ込めて制海権を確保した。

イギリス海軍は地中海でガリポリ上陸作戦を支援し、前弩級戦艦5隻を失った[7]。しかしイギリス海軍戦力の優勢は変わらず、さらに国力の差により徐々に差が開いていった。1915年中にイギリス海軍はクイーン・エリザベス級戦艦3隻が竣工し、翌年には残りの2隻とリヴェンジ級戦艦が竣工する予定であったが、ドイツ海軍は1915年でも巡洋戦艦リュッツオウ1隻、翌年も戦艦2隻が竣工するだけであった。

指揮官の交代

ラインハルト・シェア提督

1916年1月18日、大洋艦隊の指揮を取っていたフーゴー・フォン・ポール大将が死病に侵され職を辞し、後任に第3戦隊司令官だったラインハルト・シェア中将が司令長官となった。2月21日に始まったヴェルダンの戦いでは海軍にも積極的な支援が求められ、皇帝は自由裁量権をシェアに与えた[8]。シェアはかねてより温めていた作戦構想を進めた。

また相手となるジェリコーも積極行動に移ろうとしていた。東部戦線で苦戦するロシアがドイツ海軍をバルト海から駆逐し、物資補給を輸送してくれるようイギリス政府に強く催促したからである。軍令部は5月12日にジェリコー、ビーティー両提督と話し合い部隊編成に一部変更を行い、高速で15インチ(381mm)砲を装備する新鋭のクイーン・エリザベス級戦艦4隻からなる第5戦艦戦隊はビーティーの指揮下に編入し、偶々訓練目的でスカパ・フローにいた第3巡洋戦艦戦隊は「大艦隊」に編入することにした。この決断は後に正しかったことが証明される[8]

5月中旬、シェアは本格的に動き出した。17隻のUボートを展開させてイギリス海軍を警戒させると共にサンダーランドへの攻撃のため、主力全艦艇を率いて出撃しようとした。しかし天候の悪化と一部の艦艇の機関の不調への修理により出撃は遅れ、5月30日朝、目的地をスカゲラック海へ切り替えて出撃した[9]

イギリスの対応

1916年5月30日から6月1日にかけての艦隊行動図

ドイツ艦隊が出撃した5月30日のうちに、イギリス海軍本部はドイツ海軍の無線電信を傍受・解読し、ドイツ潜水艦部隊が北海を行動中であること、ドイツ水上艦隊が出撃していることの双方を把握し、ジェリコーとビーティーに出撃を命じた。

ジェリコーは「大艦隊」の24隻の弩級戦艦と3隻の巡洋戦艦を率いてスカパ・フローから出撃した。ビーティー率いる巡洋戦艦部隊(6隻の巡洋戦艦と4隻の弩級戦艦)もフォース河口から出撃した。イギリス側は全ての参加部隊が5月31日午前0時頃北海に出て進軍を始めた。

ジェリコーは、デンマーク領・ユトランド半島沖(スカゲラク海峡の西、90 Nautical Mile[注釈 1]〈約167キロメートルの地点)で、先行するビーティーと同日の16時には合流し、ドイツ艦隊への迎撃体勢を取る予定であった[9]。ビーティーの巡洋戦艦部隊は先に会合点の南南東150海里まで進出し、敵が見当たらないことを確認後、針路を北に折り返し会合点へ向かうよう指示された[10]。ジェリコーはドイツ艦隊の到着はこの合流の9時間後と思い込んでいたが、実際には合流を待たずに海戦が始まった。この誤判断は本国海軍本部情報部のミスが誘因だった。

両艦隊の比較

シェアが16隻の弩級戦艦、5隻の巡洋戦艦と6隻の旧式な前弩級戦艦を持つのに対して、ジェリコー配下の部隊は28隻の弩級戦艦と9隻の巡洋戦艦を保有していた。イギリス艦隊は軽艦艇においても同様に優位に立っていた。斉射重量においてもイギリス艦隊は332,400lb(151トン)と、ドイツ艦隊の134,000lb(61トン)に対して、優位にあった。

しかしドイツ艦隊は、イギリスに比べ射撃指揮が優れ命中率が高かった。また、ドッガー・バンク海戦の戦訓から弾火薬庫などの防御に細心の注意を払い、巡洋戦艦も防御力の強化を行っていた。さらに主力艦艇の主砲の最大仰角を引き上げ射程距離を伸ばす工事を実施していた。これらは海戦で重要な意味を持つようになる[11]


注釈

  1. ^ 海事における「マイル」は例外なく Nautical Mile(「浬」または「海里」。現在は1852メートル)であり、一般の Mile(現在は1609.344 メートル)ではない。
  2. ^ ライオン」を救った武功により、フランシス・ハーヴェイ英語版海兵隊少佐ヴィクトリア十字章を追贈された[14]
  3. ^ a b 引用者による和訳。

出典

  1. ^ 著名な軍事史家リデル・ハートは、『第一次世界大戦』で「史上この戦闘ほどインクを費やさせた戦闘はない」と評した。
  2. ^ イギリスとは異なりドイツ海軍の巡洋戦艦は敵巡洋戦艦と戦う設計思想の下で建造された。
  3. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.117
  4. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.118-119
  5. ^ イギリスは、バルト海で撃沈したドイツ巡洋艦から暗号を入手していた。
  6. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.119
  7. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.120
  8. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.121
  9. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻前巻『ユトランド沖海戦』p.122
  10. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.122-123
  11. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.119-120
  12. ^ a b c d 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.123
  13. ^ a b c d e f g h i 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.124
  14. ^ Major Francis Harvey VC”. 帝国戦争博物館. 2023年4月18日閲覧。
  15. ^ a b There's 'something wrong with our bloody ships today'”. ザ・ヒル (2021年7月28日). 2022年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月28日閲覧。
  16. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.125
  17. ^ a b c d e f g h i 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』pp.125-126
  18. ^ a b c d e f g h i j 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.126
  19. ^ a b c 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.127
  20. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.128
  21. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.129
  22. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.130
  23. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』
  24. ^ 世界の艦船 2016年6月号 通巻838号






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