ヤルタ 歴史

ヤルタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 14:10 UTC 版)

歴史

12世紀-19世紀

ヤルタの存在を初めて記録したのは12世紀のアラブ人の地学者で、それによると、町をビザンティン帝国の港と漁業の町として記している。14世紀にヤルタはジェノヴァの商人の居住地としてこの地方における交易のネットワークの一部に組み込まれ、エタリタ(Etalita)あるいはガリタ(Galita)と呼ばれた。クリミア半島は1475年オスマン帝国に征服され、オスマン帝国の半独立的な属国であるクリミア・ハン国の領域に組み込まれた。しかしヤルタを含む南岸部はケフェ(Eyalet)としてオスマン帝国の直轄領とされた。ヤルタは1783年、他のクリミア半島地方とともにロシア帝国に併合され、露土戦争の引き金となった。クリミア半島の併合に先立つ1778年、クリミアのギリシャ人たちはマリウポリに移動した。同地でギリシャ人が建設した村もヤルタ(Ялта)と呼ばれる。

19世紀には、町はロシアの貴族や上流階級の人々のための高級リゾート地となった。作家のレフ・トルストイアントン・チェーホフらはヤルタで夏を過ごした。アントン・チェーホフ1899年から1904年までヤルタに住み、この地で『三人姉妹』『桜の園』などを書いた。ヤルタはチェーホフの短編小説「犬を連れた奥さん」の舞台ともなっている。町はまたロシアの皇族とも深いつながりを持っている。1889年、ロシアの皇帝アレクサンドル3世はヤルタの北にマサンドラ宮殿を建設し、1911年にはニコライ2世が南西にリヴァディア宮殿を建設した。

20世紀

20世紀の間、ヤルタはソビエト連邦随一のリゾート地となった。1920年ウラジーミル・レーニンは「クリミアの労働者の療養のために使用するにあたって」との布告を発し、この地域をきらびやかで高級なリゾート地から疲れたプロレタリア労働者のための療養の地へと作り変えることを推進した。ヤルタ周辺には、労働者のためのサナトリウムがいくつも建設された。このほかに、ほぼ全てのソビエト連邦市民が外国旅行を禁じられており、ヤルタには彼らのために少数の沿岸リゾート地があった。ソビエト連邦の有力者たちもまたヤルタを訪れた。ソビエト連邦の独裁者であったヨシフ・スターリンはマサンドラ宮殿を彼の夏の住処として使用した。1941年11月4日、内務人民委員部(NKVD)はヤルタの刑務所にいた全ての囚人を射殺した[2]

黒海岸からみたヤルタ
リヴァディア宮殿。ヤルタ南西のリヴァディアにあり、第二次世界大戦時にはヤルタ会談が行われた。
ツバメの巣城

町は第二次世界大戦末期の1945年2月、大戦の連合国側の主要3箇国の首脳によるヤルタ会談が行われたことにより国際的に注目を集めた。ソビエト連邦、イギリスアメリカ合衆国の首脳がリヴァディア宮殿にて会談を行った。

ソ連8月クーデターの際に書記長のゴルバチョフが別荘に軟禁されたが、その別荘はヤルタラヨン内のフォロスに在った。




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