ボーア人 起源

ボーア人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/10 08:49 UTC 版)

起源

ヨーロッパの植民地主義

オランダ東インド会社(VOC)は1602年にネーデルラント連邦共和国で結成され、オランダは東南アジアの植民政策および帝国主義の商業貿易競争に熱心に参入していた。1648年の30年戦争終結で、ヨーロッパにいる兵士と難民が欧州全域に広く散らばった。スカンジナビアやスイスやドイツからの移民が、VOCに雇用されること期待してオランダにやって来た。同年、彼らの船の1隻がテーブル湾(現:ケープタウン)で座礁し、難破船の乗組員は海岸で数ヶ月間の自給自足生活を余儀なくされた。彼らはこの国の天然資源にひどく感銘を受けたため、ネーデルラント共和国に戻った際、適切な中継基地をケープに設営することがオランダ東部貿易にとって大きな利点になるとVOCの幹部達に力説した。その結果、1652年に外科医ヤン・ファン・リーベック率いるオランダの探検隊がテーブル湾に中継基地を建設し、菜園を開墾した。

テーブル湾に上陸したファン・リーベックはケープタウンを支配下に置き、植民地を統治した10年1ヶ月後の1662年に、ケープの司令官を辞任した。

喜望峰開拓者

VOCはケープで自由市民という思想を支持し、VOC労働者の多くは喜望峰開拓者(Free Burghers)になるために解放を要求した。結果的にヤン・ファン・リーベックは有利な条件の概念を承認し、1657年にリースビーク川付近の2地域を農業目的用に割り当てた。自由市民に割り当てられた農業目的用の2地域は、フルーネフェルトそしてダッチガーデンと名付けられた。両地域はアムステル川(現:リースビーク川)で区分けされていた。応募者のうち最も優秀な9人が選ばれ、農業目的で土地を活用した。後に彼らは自由市民や喜望峰開拓者と呼ばれ、かくしてVOCの構成要員となり、もはや使役人ではなかった[11]

1671年、オランダ人はファン・リーベックの建設した基地よりも奥にいる先住民族コイコイ人から最初に土地を購入し、これがケープ植民地開発の足掛かりとなった。1685年、政府は安定的なコミュニティを構築する目的でより多様な移民の募集活動を行なった。彼らは、自分達の契約を務めた後にケープに留まった元VOC雇用者であり、自由市民(vrijburgersや vrijlieden)と呼ばれる階級の一部を形成した[12]。多数の自由市民が 自作農となり、VOC行政府から土地の助成金を申請したり、種子や道具の融資を申請した[12]

オランダの自由移民

VOC職員達は、ヨーロッパから南アフリカへの移住を促進すべく庭師や小規模農家に働きかけたが、殆ど成功しなかった。彼らは富の物語を通して幾つかの世帯を誘致することに成功したが、比較するとケープには殆ど魅力が無かった。しかし1670年10月、アムステルダム会議所は幾つかの世帯が12月中にケープとモーリシャスに向けて出発する意思があると発表した[13]

フランスのユグノー

ユグノー記念博物館

1688-1689年に、フランスの宗教戦争から逃れた政治難民ユグノー約200人の到着によって、植民地は大きく強化された。ステレンボッシュ、ドラケンシュタイン、フランシュフックパールの植民地に彼らが入ってきた。入植者の特徴におけるユグノーの影響が顕著となり、1701年にVOCはオランダ語だけを学校で教えるべきだと指示した。これが18世紀半ばまでにユグノーを同化させ、フランス語の使用と知識が失われる結果となった。この植民地は徐々に東へと拡大し、1754年にはアルゴア湾までの土地が植民地に含められた。

この時点で、ヨーロッパ入植者は8000人から1万人ほどだった。彼らは奴隷達を多数所有し、輸出用商品作物になる十分な量の小麦を栽培し、彼らのワイン品質の高さも有名だった。ただし彼らの主な富は牛であり[注釈 2]、相当な繁栄を享受した。

17世紀後半から18世紀全体を通して、VOCの行政は独裁的であったため入植者と政府との間で騒動が起こった。その政策は植民地開発に向けられず、VOCの利益捻出に使われていた。VOCは自由移民に反対して植民地を閉鎖すると、貿易全体を手中に収め、行政と立法と司法を一体に組み合わせ、農家には栽培する作物を規定し、農産物の大部分を税金の一環として要求したり、その他の強制徴収を実施した[14]

トレックボーア

時には雇い入れたVOCの使役人に喜望峰開拓者の権利が与えられたが、VOCは自分達が必要と思しき時にいつでも使役に戻るよう強制する権力を保持した。人々を隷属させるこの権利は、指定された本人に施行されるだけでなくその子供も適用される、と行政府によって主張された。

この専制政治には、1700年のトレック(集団移住)が始まる前でさえ、大勢が絶望を感じて圧政からの逃避を引き起こした。1780年、ヨアヒム・ファン・プレッテンベルク総督はスネーウベルゲ山地を植民地の北の境界にすると宣言し、重い罰則を設けて「農民が漫然とうろついて向こうへ行くのを禁じる」と表明した。1789年、開拓者間で感情が非常に高まったため代表団が派遣され、オランダのアムステルダムで当局者への聞き取り調査が実施された。この代表派遣後、名目上の改革が幾つか認められた。

農民達が政府のお膝元から遠隔地へと集団移住したのは、主に圧政から逃れるためだった。VOCは移民を管理するため、1745年にスウェレンダムそして1786年にグラーフ=ライネで、別の行政府を設立した。1740年頃はハムトース川が植民地の東境界だと宣言されていたが、すぐに境界は川を超えた。しかし1780年、オランダ人はバンツー族との衝突を避けるためグレート・フィッシュ川を共通の境界にすることで同意した。1795年、バンツー族に対抗する庇護もないまま重税を課された境界地区の開拓者は、VOCの役人らを追放してスウェレンダムとグラーフ=ライネに自治政府を設立した。

19世紀のトレックボーア達は、18世紀トレックボーア達の直系子孫だった。19世紀末には、トランスヴァールのVOC政府と同じく横暴な専制政策の復活が見られた。18世紀のVOC政権が「全ての政治的事象は純粋に専制的、全ての商業的事象は純粋に独占的」という図式だとして、19世紀後半のポール・クリューガー政権にもそれが同様に当てはまった[要出典][要説明]

集団移住を可能にした基盤となる事実としては、植民地の東部と北東部に住む入植オランダ人の子孫が土壌耕作者ではなかったこと。純粋に牧歌的かつ遊牧的な習慣で、集団のために新たな牧草地を求める準備を整えており、特定地域に特別な愛着を持たなかった点である。広い領土に薄く分散したこれらの人達については、1815年に「巡回委員会(Commissions of Circuit)」という組織によって司法官が住居に近づいた際に様々な犯罪が明るみとなり、その矯正が多くの遺恨を引き起こした。

植民地の東部および北東部の入植オランダ人子孫は、グレート・トレックの結果として、政府の統治から逃れて広範に広がっていった。しかし、1815年に巡回委員会が、トレックボーアによる犯罪(特に、奴隷にされた人々に対するもの[注釈 3]が多数含まれる)を司法に照らして、犯罪の告発ができるようにした。この告発制度はトレッカー達に非常に不評で、自分達の財産だと見なしていた奴隷を占有する自分達の権利を妨害していると考えられた。


注釈

  1. ^ その理由は、主にケープ植民地とイギリス間で1833年奴隷廃止法の際に導入された、英語を第一言語とする新たなコモン・ロー制度だとされる[5][6]
  2. ^ a b アフリカにおいて牛は、農耕や荷物運搬を手伝ってくれる家畜という以上に、農家の貴重な財産として位置づけられ、その頭数が農家の社会的地位をも反映する[15]。実際、飢饉などの非常時はその牛を売って現金収入を得ることも可能だった。
  3. ^ この奴隷とは南アフリカの先住民を指しており、オランダ東インド会社による統治がなされた17世紀から、入植オランダ人は行く先々で彼ら先住民を(植民地に必要な)奴隷として扱っていた。
  4. ^ アフリカーンス語がオランダ語の娘言語; see Booij 1999, p. 2, Jansen, Schreuder & Neijt 2007, p. 5, Mennen, Levelt & Gerrits 2006, p. 1, Booij 2003, p. 4, Hiskens, Auer & Kerswill 2005, p. 19, Heeringa & de Wet 2007, pp. 1, 3, 5.
    アフリカーンス語がケープ・ダッチと呼称されていた; see Deumert & Vandenbussche 2003, p. 16, Conradie 2005, p. 208, Sebba 1997, p. 160, Langer & Davies 2005, p. 144, Deumert 2002, p. 3, Berdichevsky 2004, p. 130.
    アフリカーンス語が17世紀のオランダ語方言に根ざすと説明; see Holm 1989, p. 338, Geerts & Clyne 1992, p. 71, Mesthrie 1995, p. 214, Niesler, Louw & Roux 2005, p. 459.
    アフリカーンス語が、クレオール言語ほかオランダ語から逸脱したものという説明; see Sebba 2007, p. 116.

出典

  1. ^ Stürmann, Jan (2005). New Coffins, Old Flags, Microorganisms and the Future of the Boer. http://www.pology.com/article/051213.html 2011年12月2日閲覧。 
  2. ^ a b Du Toit, Brian M. (1998). . The Boers in East Africa: Ethnicity and Identity. p. 1. https://www.questia.com/PM.qst?a=o&docId=27642806# . 2011年12月2日閲覧。 
  3. ^ コトバンクボーア人」、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、デジタル大辞泉世界大百科事典 第2版の解説より。
  4. ^ Bosman, D. B.; Van der Merwe, I. W.; Hiemstra, L. W. (1984). Tweetalige Woordeboek Afrikaans-Engels. Tafelberg-uitgewers. ISBN 0-624-00533-X 
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  7. ^ https://www.irishtimes.com/life-and-style/people/the-irish-remind-me-of-afrikaans-people-they-re-quite-reserved-1.4154039
  8. ^ a b https://www.iol.co.za/pretoria-news/opinion/dont-call-me-a-boer-1610759
  9. ^ https://www.southafrica.net/za/en/travel/article/the-rich-and-diverse-afrikaans-culture
  10. ^ Kaplan, Irving. Area Handbook for the Republic of South Africa. pp. 46-771. http://files.eric.ed.gov/fulltext/ED056947.pdf 
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