ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/17 13:26 UTC 版)
影響
普仏戦争の勝利でモルトケのプロイセン参謀本部は世界中の軍隊の憧れの存在となった。各国は続々とプロイセンの制度の導入を開始した[323][324]。
フランス軍は普仏戦争敗戦後の翌年1871年にフランス参謀本部を立ち上げ、進級規定が厳格なプロイセン参謀本部に倣った組織体制を作り、クラウゼヴィッツの研究も開始した[325]。アメリカ軍でも米西戦争がプロイセンの戦争に比べてあまりに不手際であったとしてプロイセン参謀本部に倣った新機構を創設し、これが後にアメリカ国防総省(ペンタゴン)となった[326]。ロシアでも参謀本部の改編が行われ、イギリスも20世紀に入ってプロイセン参謀本部を参考にするようになった[327]。
ただフランスやアメリカ、イギリスではモルトケの参謀本部の影響を受けつつも、参謀は書記・伝令という旧来からの風潮は消えなかった[323]。イギリス海軍の影響を受ける日本海軍やアメリカ軍の影響を受ける自衛隊もそうした傾向が強い[323]。一方、モルトケ式に強い影響を受けたのが日本陸軍とオスマン帝国陸軍であった。
元来、日本陸軍は元来フランス式軍制を目指すところが多かったが、普仏戦争後にはプロイセン参謀本部に倣った参謀本部制度を導入した[328]。さらに1884年にお雇い外国人として来日したモルトケの弟子クレメンス・メッケル少佐の協力を得てドイツ式軍制を導入する軍事制度改革(鎮台を進攻向きの師団に再編成、一般服役の徴兵制を導入、徳川幕府以来の仰々しい命令文の書き方を明瞭簡潔化するなど)を断行した[329][330]。またメッケルの教鞭によって陸軍大学にドイツ型参謀教育が確立されていった[331]。ドイツ式軍制に生まれ変わった日本軍は日清戦争と日露戦争に勝利して成果を示した。とりわけ日清戦争では清軍が未だお粗末な作戦能力の東洋的軍隊だったこともあり、モルトケ流の分散進撃・包囲撃滅が大きな戦果をあげている[332]。日露戦争においても遼陽会戦や奉天会戦などにモルトケの戦術の影響が認められる[333]。日露戦争勝利から1年後の1906年にメッケルが死んだことを知った児玉源太郎参謀総長らメッケルの薫陶を受けた日本の陸軍軍人らは、彼に感謝の意を示すために陸軍大学校でメッケルの英霊を弔うための神祭を執り行っている[334]。
オスマン帝国には1830年代にモルトケ自身が教官として派遣されていたことがある。ただこの時にはオスマン帝国陸軍の根本的な改革をすることはできなかった[57]。オスマン陸軍が重い腰をあげてドイツ式改革を開始するのは、露土戦争敗戦後の1883年にコルマール・フォン・デア・ゴルツが派遣されてからである。ゴルツによってオスマン陸軍にドイツ型参謀教育が施され[331]、またオスマン陸軍の再編成が行われた[331]。もっともオスマン帝国では改革を妨害する勢力も根強かったので(ゴルツを招いた皇帝アブデュルハミト2世も含めて)日本ほどスムーズにはいかず、ゴルツの改革も限定的にしかできなかった[335]。それでもゴルツの成果は希土戦争によって発揮された[336]。また後にゴルツの参謀教育を受けた青年将校たちが青年トルコ人革命を起こしたが、彼らは改革を阻害するアブデュルハミト2世が独裁権力を握り続ける限り、帝国の近代化は不可能と考えて立ち上がったのだった[337]。
注釈
- ^ 第一次世界大戦時の参謀総長
- ^ ドイツ語では「Moltke der Ältere」長老モルトケ、英語では「Moltke the Elder」年長者モルトケ。
- ^ モルトケの妹はイギリス人ジョン・ブルト(John Burt)に後妻として嫁いでおり、彼が先妻との間に儲けていた娘がマリー・ブルトであった[88][89]。
- ^ 1815年時点でプロイセンの人口は約1000万人であったが、1855年には1800万人になっていた[144]。
- ^ ケーニヒグレーツの戦いにおいてモルトケの作戦指示書を見た師団長アルブレヒト・グスタフ・フォン・マンシュタイン将軍は「良く出来た作戦指示書だ。ところでこのモルトケ将軍とは誰のことか」と尋ねたという逸話が残っている[205][206][207]。
- ^ 一方でウィーン進軍についてモルトケは一貫してビスマルクを支持して、ウィーン進軍に反対していたとする説もある[215]。
- ^ 普仏戦争でプロイセン軍が勝利したことは大衆軍隊の勝利と看做され、フランスもこの戦争後には大衆軍隊へと移行していくことになる[243]。
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固有名詞の分類
プール・ル・メリット勲章戦功章受章者 |
フェードア・フォン・ボック エードゥアルト・フォン・ベーム=エルモッリ ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ オットー・ヴェディゲン アドルフ・ツー・シャウムブルク=リッペ |
ドイツの伯爵 |
ゲオルク・フォン・ヘルトリング オットー・フォン・ビスマルク ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク マクシミリアン・フォン・シュペー |
プロイセンの元帥 |
アウグスト・フォン・グナイゼナウ クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル |
ドイツ帝国の元帥 |
メフメト5世 レオポルト・フォン・バイエルン ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー アルフレート・フォン・シュリーフェン |
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