フォード・コスワース・DFVエンジン
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DFVの発展形エンジン
F1で一時代を築き上げたDFVエンジンは、F1での活躍の場を失ってからも、様々な手を加えられながら他のカテゴリで使われ続けた。
F3000
先ず、F2に代わって1985年から始まったF3000マシン用のエンジンとしてヨーロッパや日本、イギリスで開催されたF3000選手権で使用され始めた。中でもヤマハは独自にDFVエンジンを5バルブ化したOX77エンジンを開発し、鈴木亜久里の1988年の全日本F3000選手権チャンピオン獲得に貢献した。
また全日本F3000選手権ではそれ以降もケン・マツウラレーシングサービスチューンのDFVが活躍を続け、1991年には片山右京、1993年には星野一義がチャンピオンを獲得している。
インディカー
またアメリカのCARTでもDFVエンジンをショートストローク化し、ターボチャージャーを装着したDFXが用いられ、さらに改良型のDFSも存在した。
グループC
1980年代のグループC用にも転用され、DFLという名前が付けられた。DFLには当初、DFVの内径を拡大した3.3リットル、行程を伸張した3.6リットル、両方拡大した3.95リットルの3種類が想定されていたが、実際には3.3リットルと3.95リットルの2種類が使われた[4]。 DFLの3.3リットル版には後にターボが付加されたが、このターボ版では強度に勝るDFX用のシリンダーが転用されていた。 変わった例として、DFLの3.3リットル版は1987年のF1に参戦していたレイトンハウス・マーチ・871のスペアマシンに第4戦モナコGPまで搭載されていた。これは871が完成直後だった第2戦、第3戦でチームにDFZエンジンが1基しかなかったためスペアエンジンが無く、その対処として急遽耐久レース用エンジンである3300ccのDFLエンジンをピットに準備した。第2戦サンマリノGP予選ではメインカーにトラブルが出たためにスペアカーで出走、実際にDFLエンジンで戦った。DFLがF1の公式セッションを走った唯一の事例であった[5]。
タスマン・チャンピオンシップ
1967年にオーストラリアとニュージーランドで行われた「タスマン・チャンピオンシップ」用に、DFVの行程を54mmまで短縮した2.5リットル仕様の「DFW」が製作され、ロータス・49Tに搭載された。 DFWはタスマン・チャンピオンシップ終了後、全てDFVの標準行程へ戻されている。
F1
DFY
1983年シーズン中に投入されたエンジンで、ショートストローク版のDFVを改良したもので、内径φ90.0mm×行程58.8mmである[6]。また、バルブ挟み角やポート形状などが変更され、ショートストローク版に対しては最高出力こそ変わらないものの中間回転域でのパワーに勝り、11,000rpmで520馬力を発生した[6]。
性能・主要諸元
- V型8気筒エンジン、DOHC4バルブ、自然吸気2,993cc
- バンク角 90度
- 内径×行程 90.0×58.8mm
- 最大出力 520hp/11,100rpm
- 最大トルク 38.7kg·m/9,000rpm
- 重量 139kg(初期)、132kg(後期)
DFZ
1987年にF1で自然吸気エンジンの規定が3.5リットルとして復活すると、同年にDFVをベースとして排気量を拡大したDFZの市販を開始した。DFVのショートストローク版で使用された内径φ90mmのブロックをベースとし、行程68.6mmを組み合わせたものだった。
このエンジンには、DFVで使用されていた機械式燃料噴射に代わり、電子制御式燃料噴射が採用され[6]、最高出力はさらに上がって575馬力となったが、ホンダやフェラーリ、ルノー、BMW(メガトロン)やTAGポルシェといったターボエンジン勢が軒並み1,000馬力近いパワーでしのぎを削っていた上に、上位チームがこぞってこれらのエンジンを使用したため、首位争いをできるレベルではなかった。
DFR
DFRはDFZを基に改良を施したエンジンで、フォードとワークス契約を結んでいたベネトンに1988年独占供給された。初期のテスト段階のエンジンにはヤマハとの提携により[7]気筒あたり5バルブのシリンダーヘッドが組み合わされていたが[6]、実戦での使用は見送られた[8]。 DFRは1989年よりDFZに代わって多くのチームに市販され、1991年まで使用された。この年を最後に、DFVの系譜を継ぐエンジンのF1参戦は終焉を迎えた。最高出力はチューナー(後述)によって異なるものの、580-600馬力を発揮していた。しかし上位陣が使用するV10やV12エンジンと比して慢性的な戦闘力不足が解消されることは適わなかった。DFR搭載車の優勝記録はなく、最高位は1990年にティレルのジャン・アレジがティレル・018とティレル・019でそれぞれ一度、併せて二度記録した2位。
注釈
出典
- ^ 『レーシングカー : その設計の秘訣』P.135
- ^ 『レーシングカー : その設計の秘訣』 p. 135
- ^ Henry, Alan. The Turbo Era. Hazleton Publishing. pp. 234. ISBN 1-874557-97-7
- ^ イアン・バムゼイ 著、三重宗久 訳『世界のレーシングエンジン』株式会社グランプリ出版、東京都新宿区、1990年、pp.75-ff頁。ISBN 4-906189-99-7。
- ^ PADDOCK NEWS レイトンハウス・マーチはスポーツカーだ F1GPX '87サンマリノGP号 6頁 1987年5月20日発行
- ^ a b c d イアン・バムゼイ 著、三重宗久 訳『世界のレーシングエンジン』株式会社グランプリ出版、東京都新宿区、1990年、pp.58-ff頁。ISBN 4-906189-99-7。
- ^ 今宮純 フォード+コスワース+ヤマハにとっての'88年DFR グランプリ・エクスプレス '88開幕直前号 28頁 山海堂 1988年4月8日発行
- ^ ベネトンは5バルブを放棄か グランプリ・エクスプレス'88ブラジルGP号 28頁 1988年4月23日発行
- ^ How to be an ace engineer: Engine builder Richard Langford AUTOSPORT 2022年10月13日
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