バージニア植民地 王領植民地

バージニア植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 14:06 UTC 版)

王領植民地

王領植民地への改変

バージニア植民地では、タバコによる恩恵をこうむるようになっても、安定した状態にはならなかった。またバージニア会社でも当初期待されたほどの利益は上げられなかった。インディアン部族との関係も、ジェームズタウンの虐殺以降、全面的な対立姿勢が続いた。こうした状況の中、国王ジェームズ1世は1624年にバージニア会社の勅許状を廃止し、バージニア植民地をバージニア王室領植民地(Crown colony, 1624年 - 1776年)とした[5]

バージニア植民地にはそれまでに約8500人の入植者があったが、そのときの人口は1275人であった。バージニア会社による植民事業はまったくの失敗であったが、年季契約奉公人の使用、人頭権による土地配分、議会の招集など、困難な創設期に採用された方策は植民地社会に根を張っていた。これらの初期の慣習と、苦難を乗り切った入植者の気質とにより、入植者には自立的傾向が芽生えた。

王領植民地となったバージニアに対し、国王は総督と評議会を任命し、植民地の代議院は廃止され、新大陸初の立憲主義は後退した[5]。バージニア植民地では住民代表による自主的な議会を毎年開催し、立憲主義の確保に努めた[5]1634年には議会の決定により地方制度として郡制が採用された。これによりバージニア植民地は8つの郡に分けられた。各郡には郡裁判所が設置され、治安判事が行政と司法にあたることになった。この制度は、他のいくつかの植民地でも採用された。

その後チャールズ1世の時代となった1639年、国王は植民地議会を正式に承認した[5]

奴隷制社会の成立

タバコ生産に従事させられる黒人奴隷(1670年)

北アメリカ大陸に黒人が奴隷として連れてこられたのは、1619年にオランダ商人が黒人奴隷をバージニア植民地に売ったのが最初であった。だがその後半世紀、奴隷労働は重要性を持たず、法的な整備もなされていなかった。黒人奴隷は単なる無期限の契約奉公人として扱われ、プランテーションでは主要な労働力を年季契約奉公人に依存していた。1680年に4万4000人の人口を持っていたバージニア植民地には1万1000人の年季契約奉公人がいたが、黒人の数は3000人に過ぎなかった。

バージニア植民地で黒人奴隷の輸入が増え、奴隷人口が目立って増加し始めたのは1680年代からであった。1720年には黒人奴隷の数は総人口6万6000人のうち1万3000人を占めるようになった。バージニア植民地において労働力の供給源を白人の年季契約奉公人から黒人奴隷に切り替えたのは、ベイコンの反乱がきっかけであり、奴隷労働に依存するほうが社会的安定が保たれると考えたからである。

奴隷人口の増加が顕著になってくると、各植民地では奴隷に関する法規が整備され、法的にも確立した制度となった。バージニア植民地では1657年に黒人の年季奉公人に関しては「年季の追加をもってしても損害の賠償は不可能」と定められたが、これは1740年代から慣習となっていたものを確認したものであった。また1661年に、黒人女性の生んだ子供の身分は父親の身分にかかわらず奴隷の身分を受け継ぐことが明文化され、1667年には奴隷が洗礼を受けても自由身分となることはできないと定められた。

その後次々に奴隷に関する法規が作られ、1705年には包括的な奴隷法が制定された。この法律はそれまでの慣習を集大成したもので、既にバージニア植民地における奴隷制に確固としたものになっていた。奴隷に関する法規は奴隷の身分を規定するだけでなく、奴隷を管理することを目的とするようになった。1723年には労働や礼拝以外の目的のための奴隷の集会を禁止し、逃亡を重罪とし、暴動を謀議したものを死罪と定めた。

経済の発展

王領植民地となって以降、大幅な自治が任され、バージニア植民地では比較的平和な時代が続くようになった。タバコの生産は飛躍的に増大し、船がのぼれる川に沿った土地には次々とプランテーションが築かれた。

バージニア植民地政府が置かれていたジェームズタウンでは、マラリアなどの疫病が頻繁に発生した。そのため1699年、植民地政府はジェームズタウン近郊の街ウィリアムズバーグに移転した。

バージニア植民地では黒人奴隷がプランテーションの労働力として使用されたが、18世紀を通じて白人農民も増大し、黒人奴隷が人口の過半数を占めることはなかった。広大な後背地を持っていたバージニア植民地はタイドウォーター地域の西のピートモンド地域が発展し、植民地時代末期には北アメリカ大陸の植民地で最も多くの人口を持つ植民地となった。白人人口で比較しても、最大であった。

タイドウォーター地域にも多数の中小農民がおり、西部には多くの白人農民が進出し、主として小麦を生産した。タバコは海外市場での価格変動が著しかったため、プランテーションでは作物を多様化して穀物生産に重点を置くようになった。その結果、小麦および小麦粉は、タバコに次ぐ第2の輸出商品となった。

北アメリカ大陸で最大の人口を誇ったバージニア植民地は、独立直前の1770年になっても、都市らしい都市を持たない植民地であった。植民地政府が置かれたウィリアムズバーグは人口2000人程度の街であり、バージニア植民地最大の貿易都市ノーフォークでも人口は6000人程度であった。バージニア植民地は湾と川が多い地形で、物資を運ぶ船が集中する都市ができにくかった。そのため植民地の産物を海外の市場に運んで売却する商人階級を生み出さなかった。ノーフォークに住んでいたのは、スコットランドから移住したスコットランド商人の代理人たちであった。

植民地の政治体制

インディアンの民主主義社会は破壊され、バージニア植民地は王領植民地となった。総督はイギリス国王により任命された。政治組織は総督、評議会、代議会の三者構成であった。総督はイギリス本国より赴任してくるのが通例であった。

評議会は総督を助言する機関であり、いわば総督を補佐して行政的職務を果たした。また植民地議会の上院としても機能し、総督とともに植民地の控訴院としての役割を果たした。ただし司法については専門的知識が必要とされたことから、専門の判事によって構成された最高裁判所が別に設けられていた。評議員の職は国王が任命したため、イギリス本国の居住者が任命された植民地に来る場合もあったが、多くは植民地の上層階級の中でも最も名家と見られる家族の構成員がその地位に着いた。

評議会は植民地上層階級の中でも最も貴族的な部分によって占められ、任期が無期限で変化に乏しかったことから、18世紀の植民地発展の中で台頭してきた多数の上層階級のメンバーは地域社会から選出されて代議会の議員となり、植民地議会の下院としての地位を築いた。一般に北アメリカ大陸で植民地代議会は「コロニアル・アセンブリー」と呼ばれていたが、バージニア植民地の代議会は「ハウス・オヴ・バージェセス」と呼ばれた。18世紀における植民地代議会の権限拡大の追求は、台頭してきた上層階級の政治権力追求の反映であった。代議会は課税に関する同意権のみならず、植民地の財政支出についても立法を発議するようになり、また多くの植民地で徴税や支出を担当する植民地の官吏を任命する権限を獲得した。このような代議会の権限の拡大は1721年から20年以上にわたってイギリスで続いたロバート・ウォルポール政権時代の「有益な怠慢」政策によって助けられた。

バージニア植民地では、代議員を選挙により選出した。参政権はイギリスの場合と同じように、一定の財産を所有する男性に限られていた。50エーカーの空地、または25エーカーの開発された土地プラス12フィート平方の家屋、または市街地1区画プラス12フィート平方の家屋を有する男性だけが、政治に参加することができた。

教育

バージニア植民地では18世紀後半までに上層階級の男性は管理の学識を持つようになり、古典的な教養や近世の思想家や法律家の著作にある程度通じていた。初等教育はプロテスタントの教区学校によるものか、個人教師による教育が一般的であった。

1693年にはスコットランド出身の聖職者ジェイムズ・ブレアがイギリス国王の勅許状を得て、ウィリアム・アンド・メアリー大学を設立した。ウィリアム・アンド・メアリー大学は植民地の子弟教育を目的としてウィリアムズバーグに設立され、トーマス・ジェファーソンジェームズ・モンローなど、後の独立運動で重要な働きをする人物を輩出した。








固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バージニア植民地」の関連用語

バージニア植民地のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バージニア植民地のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのバージニア植民地 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS