ハーロー・シャプレー 生涯

ハーロー・シャプレー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/11 21:26 UTC 版)

生涯

ミズーリ州ナッシュヴィル(Nashville)に、農家の息子として生まれる。一度学校を中退した後に独学で高校に入学・卒業し、1907年ミズーリ大学コロンビア校へ進学。彼は本来はジャーナリズムを学ぶつもりだったが、学科が一年延期されていたために、学科のリストの最初のものを専攻することにした。だが、考古学(Archeology)が発音できなかったため、二番目の天文学(Astronomy)をシャプレーは選んだ。

卒業後、シャプレーはプリンストン大学へ進み、ヘンリー・ノリス・ラッセルの元で学ぶ。1914年、シャプレーは「セファイド変光星は1個の星が脈動していることによって変光する」とする「脈動説」を提唱した[2][3]。このシャプレーの説は、のちにアーサー・エディントンらによって理論的に証明され、定説となった[2]。1918年には、ヘンリエッタ・スワン・リービットアイナー・ヘルツシュプルングの先行研究を元に、セファイド変光星の変光周期と光度の観測から球状星団までの距離を測定する方法を考案。数十個の球状星団の距離を決定してその分布図を描き、「太陽が銀河系の中心ではない」モデル(シャプレーの銀河系モデル)を描く。1921年から1952年までハーバード大学天文台の所長を務めた。1932年、シャプレーはアデレード・エイムズ(Adelaide Ames)とともに、銀河研究の基礎的データを提供するために全天を写真観測し、13等級よりも明るい銀河1,249個の明るさ、大きさ、型などのカタログ(シャプレー・エイムズカタログ)を作成した。 第二次世界大戦後は、ユネスコの設立に尽力した[2]。シャプレーは、1972年コロラド州ボルダーで死去した。


  1. ^ シャプレー”. 天文学辞典. 日本天文学会 (2019年5月26日). 2022年2月15日閲覧。
  2. ^ a b c d 斉田博 著「シャプレー, Shapley Harlow(1885〜1972)」、中山茂 編 編『天文学人名辞典』(初版第一刷)〈現代天文学講座 別巻〉、1983年3月25日、71頁。 NCID BN00165458 
  3. ^ Shapley, Harlow (1914). “On the Nature and Cause of Cepheid Variation”. The Astrophysical Journal (American Astronomical Society) 40: 448. Bibcode1914ApJ....40..448S. doi:10.1086/142137. ISSN 0004-637X. 
  4. ^ (1123) Shapleya = 1928 ST = 1974 QQ2 = 2016 FJ6”. MPC. 2021年8月14日閲覧。


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