ハンナ・ウィトール・スミス ハンナ・ウィトール・スミスの概要

ハンナ・ウィトール・スミス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/08 07:59 UTC 版)

ハンナ・ウィトール・スミス
生誕ハンナ・テイタム・ウィトール
(1832-02-07) 1832年2月7日
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア
死没 (1911-05-01) 1911年5月1日(79歳没)
イングランド
配偶者
ロバート・ピアソル・スミス (m. 1851⁠–⁠1898)

生涯

幼少期

1832年2月7日にフィラデルフィアで生まれた。ニュージャージー州で名声と影響力を持つ古いクエーカーの家系だった。父親はジョン・M・ウィトール英語版、母親はメアリー・テイタム・ウィトールだった。初期のアメリカで活躍した著名なクエーカーの女性アン・クーパー・ウィトール英語版は祖先にあたる。

キャリア

1851年11月5日、ハンナはロバート・ピアソル・スミス英語版と結婚した。ロバート・ピアソル・スミスもまた、地域で長く続いている有名なクエーカーの家系の人物だった。スミス夫妻はペンシルベニア州ジャーマンタウン英語版に移住した。夫妻はそこで1858年に改宗し、クエーカーと距離を置くようになったが、スミス夫人はクエーカーの教義の多くを信じ続けており、クエーカーとしての育ちや信仰の実践を誇りにしていた[1][2]。その後夫妻はプリマス・ブレザレンに、続いてメソジスト復興運動から多大な影響を受けた。そしてウェスレー派の聖化に関する教理からの影響に基づき、さらにクエーカーの教義やスピリチュアリズムからの影響をも併せてケズィック神学を体系化し普及させた[2]。また1858年The Higher Christian Life を著したウィリアム・ボードマン英語版の影響も受けたと見られる。

1864年から1868年まではニュージャージー州ミルヴィルに在住した。夫ロバートはハンナの父親の事業であるウィトール・テイタム・カンパニーのガラス工場を管理していた[3]

クリフォードが描いた絵

ウィリアム・ボードマンは夫妻をホーリネス運動の講演者に育て上げたとみられる。夫妻は1873年から1874年にかけて、オックスフォードなどイングランドの様々な場所で「より高い人生」や「聖性」というテーマについて講演を行った。その最初は心霊主義者のマウント・テンプル男爵夫妻が主催したブロードランズ会議で行われた運動創立の集会だった[2]エドワード・クリフォード英語版が依頼されて描いたブロードランズ会議の絵において、ハンナは中心に描かれている。このころロバートは不貞行為を行っており、そのためか絵の中のハンナは「神に信頼を置くことはできても、男に信頼を置くことはできない」という文章を読んでいる。ハンナの背後に描かれている小さな白い人影は、スピリチュアリティの力によって接触することができた魂を表していると考えられている[4]

ハンナはホーリネス運動のみでしか活動していなかったわけではない。1874年、ハンナは女性キリスト教徒禁酒組合英語版(以降WCTUと略す)の設立に協力した。同年、スミス夫妻は出来て間もないドイツ帝国スイスを訪れ、いくつかの主要都市で演説を行った。1875年、彼らはイギリスに戻り、ブライトンで集会を開催したが、ロバートの性的スキャンダルが原因で、彼らのイギリス訪問は突然中止された。ロバート・スミスの不倫は止まず、ハンナが当時支配的だった家父長制に反する女性の役割に関する強硬なフェミニズム思想を提唱したこともあり、夫妻の結婚生活は深刻な緊張状態に陥った[2]。そんな中でもハンナはWCTU伝道部の全国総監を務め、世界中に活動家同士のネットワークを形成した[5]。この頃には、ハンナのWCTUでの活動や、著書 The Christian's Secret of a Happy Life(1875年)は国際的によく知られるようになっていた。ニュージーランドに滞在していたWCTUの宣教師メアリー・グリーンリーフ・クレメント・レヴィット英語版は、1885年8月、ハンナ・ウィトール・スミスに宛てて書いた手紙の中で

オークランド聖公会のヒル師という宣教師に出会いました。気高き神のしもべで、当地ではいつも私を助けてくれた方なのですが、信仰者として今あるのは、神の導きの元、全てあなたのおかげだと言っておられました。多くの家庭の本棚にあなたの著作がありましたし、イギリスであなたの集会に参加した人々とも何人かお会いしました。

と書いている[6]

娘のメアリーがイギリスの法廷弁護士フランク・コステロと結婚したため、1888年、スミス一家はイギリスに移住した。二人はやがて離婚し、メアリーは評論家のバーナード・ベレンソンと再婚した。次女のアリーズが哲学者のバートランド・ラッセルと出会い、結婚したのもイギリスだった。三女ローガン・ピアソル・スミス随筆家評論家となった。

ハンナ・ウィトール・スミスには7人の子供がいたが、成人まで生き延びたのはメアリー、アリーズ・ピアソル、ローガン・ピアソルの3人だけであった。姪のマーサ・キャリー・トーマス英語版は、アメリカ初の女性大学学長であり、サフラジェット活動家であった。

ハンナ・ウィトール・スミスは1911年5月1日に死去した。

著作と影響

ハンナ・ウィトール・スミスの著書 The Christian's Secret of a Happy Life(1875年)はキリスト教神秘主義実践的ホーリネス神学について書かれており、後年まで広く読まれている[3]1903年に霊的な自伝 The Unselfishness of God And How I Discovered It を書いた。この本の多くの版では、彼女がどのようにして普遍主義者になったかについて書かれた3章が削除されている[7]。他には、1911年に亡くなる5年前の1906年に The God of All Comfort を著している。


  1. ^ Wayback Machine”. web.archive.org (2017年9月29日). 2023年5月2日閲覧。
  2. ^ a b c d Ross, Thomas (2014年8月11日). “Quaker Quietist Hannah Whitall Smith; Keswick / Higher Life” (英語). Faith Saves. 2023年5月2日閲覧。
  3. ^ a b Hannah Whitall Smith”. www.tentmaker.org. 2023年5月2日閲覧。
  4. ^ Edward Clifford (British 1844-1907), A group portrait of The Broadlands Conference: The Sitters | Dreweatts”. www.dreweatts.com. 2023年5月2日閲覧。
  5. ^ Willard, Frances (1883). Woman and Temperance: or, The work and workers of the Woman's Christian Temperance Union. Hartford, CT: Park Publishing Company. p. 272.
  6. ^ Leavitt, Mary (1885-08-13). “Letter from Mary Clement Leavitt to Hannah Whitall Smith.”. Letters. https://place.asburyseminary.edu/hwsletters/7. 
  7. ^ The Unselfishness of God and How I Discovered It (the missing chapters)”. www.tentmaker.org. 2023年5月2日閲覧。


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