ドレッドノート (原子力潜水艦) 就役履歴

ドレッドノート (原子力潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 03:38 UTC 版)

就役履歴

1960年代半ば、ドレッドノートはヴァージニア州ノーフォークバミューダロッテルダムキールといった多くの都市に寄港した。ジブラルタルには1965年から1967年にかけて毎年寄港し、1967年9月19日にはロスサイスを出港し、シンガポールに向けて高速航行試験を兼ねた航海を行った。この航海において、ドレッドノートは、4,640マイルの水上航走と26,545マイルの潜航を行った。

ドレッドノートは多種多様な任務に従事した。その中には、1967年6月24日、難破し漂流中のドイツ船エスベルガー・ヒェミスト (Essberger Chemist) を沈めるというものもあった。3発の魚雷が船腹に命中したが、とどめを刺したのは、駆逐艦ソールスベリー (HMS Salisbury) の砲撃によって船倉に開けられた破孔であった。

ドレッドノートは総じて信頼のおける艦として、乗員からは好ましく見られていたが、1965年9月22日には、耐圧隔壁に亀裂が見つかったことから、活動停止に追い込まれ、改修工事が行われた (艦隊に復帰したのは1966年2月2日)。1968年5月から1970年9月10日まで、母港ロシスにおいて、炉心交換とバラストタンク弁の静粛化を含む大規模な改修工事が施された。この改修工事において、ドレッドノートの原子炉の炉心はPWR1コア A に換装された[6]

1971年3月3日、ドレッドノートはイギリス潜水艦としては初めて北極点に浮上した。1973年には、イギリス海軍初の年次展開に参加し、戦闘艦・補助艦を含む戦闘群の一員として、戦闘能力を維持するための長期展開を行い、世界へプレゼンスを示した。

1977年には、アラクリティ (HMS Alacrity, F174) およびフィービ (HMS Phoebe, F42) とともに南西大西洋に展開し、アルゼンチンによるフォークランド諸島への侵攻の抑止にあたった。


  1. ^ Eric J. Grove, 1987, Vanguard to Trident: British Naval Policy since World War II, The Bodley Head, ISBN 0-370-31021-7
  2. ^ a b c d Grove, 1987.
  3. ^ John E. Moore, Capt., RN, 1979, Warships of the Royal Navy, Jane's publishing, ISBN 0-531-03730-4
  4. ^ アメリカ・イギリス相互防衛協定をも参照
  5. ^ a b クランシー: 208
  6. ^ a b 60 Years of Marine Nuclear Power: 1955 -2015Part 4: Other Nuclear Marine Nations”. Lynceans.org. 2021年3月18日閲覧。(p18/190)





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