シュヴァイトニッツ包囲戦 (七年戦争) シュヴァイトニッツ包囲戦 (七年戦争)の概要

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シュヴァイトニッツ包囲戦 (七年戦争)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 19:48 UTC 版)

シュヴァイトニッツの地図、1645年

4度の包囲はそれぞれ1757年、1758年、1761年、1762年におき、全て要塞の降伏に終わった。最後の包囲戦に勝利したプロイセン軍は終戦後もシュヴァイトニッツを保持した。

第一次包囲

第一次シュヴァイトニッツ包囲戦

シュヴァイトニッツ要塞の地図、1825年
戦争七年戦争
年月日1757年10月 - 11月12日
場所シュレージエンシュヴァイトニッツ英語版
結果:オーストリアの勝利
交戦勢力
ハプスブルク帝国 プロイセン王国
指導者・指揮官
フランツ・レオポルト・フォン・ナーダシュディ
カール・フォン・アマダイドイツ語版
フィリップ・ロト・フォン・ゼーアスドイツ語版

コリンの戦いで勝利した後、フランツ・レオポルト・フォン・ナーダシュディ将軍率いるオーストリア軍はシュヴァイトニッツの包囲に取り掛かった。6週間後の1757年10月末にカール・フォン・アマダイドイツ語版が塹壕からの砲撃を開始、11月11日にはオーストリア軍が要塞側のルネット英語版でつながれた2つの防御陣地英語版を強襲した。オーストリア軍は3列の陣形で攻撃、1列目は撃退されたがアマダイ率いる2列目の攻撃は陣地の占領に成功した。翌12日、フィリップ・ロト・フォン・ゼーアスドイツ語版率いる守備隊は降伏した。

第二次包囲

第二次シュヴァイトニッツ包囲戦

1758年の包囲戦の地図
戦争七年戦争
年月日1758年3月 - 4月18日
場所シュレージエンシュヴァイトニッツ英語版
結果:プロイセンの勝利
交戦勢力
プロイセン王国 ハプスブルク帝国
指導者・指揮官
フリードリヒ2世
ヨアヒム・クリスティアン・フォン・トレスコードイツ語版
クリスティアン・フリードリヒ・フォン・ディーリッケドイツ語版
ヨハン・フリードリヒ・フォン・バルビドイツ語版
フランツ・ルートヴィヒ・フォン・テュールハイムドイツ語版
戦力
8,000人
損害
戦死10人
負傷48人
捕虜5,000人
死傷者多数

第一次包囲の後、シュヴァイトニッツはオーストリア軍のシュレージエンにおける要塞の1つとなっていた。その駐留軍8千人の指揮官はフランツ・ルートヴィヒ・フォン・テュールハイムドイツ語版であり、彼は要塞を修理し、補給を運び込んだ。

1757年末にブレスラウ包囲戦が終わると、次の目標がシュヴァイトニッツであることは明らかであった。実際、プロイセン軍は1758年3月に攻城兵器を準備したが、悪天候により塹壕からの砲撃が始まったのは4月1日のことであった。

プロイセン側では工兵のヨハン・フリードリヒ・フォン・バルビドイツ語版が工事をはじめ、夜のうちにガルゲン砦(Galgenfort、1号要塞とも)へ400歩ずつ接近した。プロイセン騎兵の一軍がゼビシュドルフ英語版Säbischdorf、現ポーランド領ザヴィシュフ)近くの山の後ろに移動して連絡線を確保した。4月2日の夜には砲台を築き始めたが、オーストリア軍が準備を整えていたため、プロイセン軍は押し返された。攻撃を成功させるには集中砲火で攻めるしかないため、プロイセン軍はこの時は反撃しなかった。5日、12ポンド砲英語版がいくつか運び込まれたため要塞への通路への砲撃が開始され、オーストリア軍の大砲は攻撃を受けて使用不能になった。

6日、砲台が完全には完成しないことが明らかになったため、フリードリヒ2世はもう待たないことを決定、まだ完成していない大砲も射撃させてオーストリア軍の大砲を破壊することを命じた。8日、大砲5門が要塞への砲撃をはじめた。これによりオーストリア軍の砲撃が止んでプロイセン軍が前進しはじめた。10日から15日までバルビの工事が進み、15日には攻城梯子を使っての強襲が決定され、翌16日にクリスティアン・フリードリヒ・フォン・ディーリッケドイツ語版率いる軍勢が塹壕に集結した。プロイセン軍は1時にガルゲン砦とヤウアーリンガー砦(Jaueringer Fort)への集中砲火をはじめ、同時に強襲部隊が前進し、擲弾兵の3個連隊も前進した。掩護に続いて強襲部隊の小部隊が進んでガルゲン砦を制圧、駐留軍である士官3人と兵士153人は捕虜にされた。

主要塞を失ったテュールハイムはプロイセン軍の指揮官ヨアヒム・クリスティアン・フォン・トレスコードイツ語版との交渉を開始、4月18日に正式に降伏した。オーストリア軍5千人が捕虜になった一方、プロイセン軍は死者10名、負傷48名しか出さなかった。

その後、要塞の指揮官にはレオポルト・フォン・ツァストロードイツ語版が任命され、4個大隊が守備軍として駐留した。




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