ギリシア人虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/25 09:26 UTC 版)
背景
小アジアにおけるギリシア語話者は少なくとも前800年頃のホメロスにまで遡る。[21] 地理学者のストラボンは、最初の小アジアのギリシア人都市としてスミルナを挙げ、[22]と、ミレトスのタレス(前7世紀)やエフェソスのヘラクレイトス(前6世紀)や、キュニコス学派の創始者であるシノペのディオゲネス(前4世紀)を含む多数の古代ギリシア人がアナトリア土着の人々であるとしている。ギリシア人は、黒海を"Πόντος Εὔξεινος (Euxinos Pontos)"(もてなしの海)と表現し、前8世紀には、黒海沿岸を船で航海し、アナトリアの沿岸に沿って居住した。[22] 黒海沿岸のもっとも著名なギリシア人都市は、トラブゾン、サンプスポンタ、シノペ、ヘラクレア・ポンティカ。[22]
ヘレニズム時代(前334-前1世紀)の間には、アレクサンドロス大王の征服に従ってギリシア文化と言語が小アジアの内部でさえ支配的となった。 ローマ時代とビザンティン支配下では、この地域のヘレニズム化が加速し、紀元後1世紀初頭までには地元の印欧語のアナトリア語派は消滅し、ヘレニズム時代とローマ時代のギリシア語の標準語であるコイネーによって置き換えられた。[23][24][25]
小アジアに残ったギリシア文化はギリシア語話者である東ローマ帝国(彼らはビザンティンギリシア人として知られる)のもとで続く千年間繁栄した。小アジアの住民は帝国のギリシア語話者である正教徒の人々で占められていた;このように、4世紀から15世紀の多くの高名なギリシア人は小アジアの土着の人々であり、聖ニコラオス(270-343年)や、ヨハネス・クリュソストモス(349-407年)、アヤソフィアの設計者ミレトスのイシドロス(6世紀)はじめ、帝国の幾つもの王朝では、フォーカス家(10世紀)やコムネノス家(11世紀)などがおり、後期ルネッサンスの学者では、 トレビゾンドのゲオルギ (1395–1472年)と ヨハンネス・ベッサリオン(1403-1472年)がいる。
トルコ人が後期中世に小アジアの征服を開始した時、ビザンティンのギリシア人市民はそこで暮らす土着の人々としては最大のグループだった。[22] テュルク人の小アジア内部の征服後でさえ、小アジアの黒海沿岸の山々がギリシア人国家(トレビゾンド帝国など)の心臓部として残っていた(トレビゾンド帝国は1461年にオスマン帝国によって征服され、その10年前までにヨーロッパ側のギリシア人領土はオスマン帝国によって征服されていた)。
第一次世界大戦が勃発すると、小アジアは、トルコ人、アゼリー人、ポントゥス人(コーカサスのギリシア人を含む)、カッパドキアのギリシア人、アルメニア人、クルド人、ザザ人、ジョージア人、チェルケス人、アッシリア人、ユダヤ人、ラズ人など多様な民族を含んでいた。
ギリシア語話者であるキリスト教徒の人々に対するトルコ人との作戦の原因には、彼ら(キリスト教徒)が、オスマン帝国の敵となることへの恐れと、また一部のトルコ人の間では、現代的な国民国家を形成するために、これらの各民族グループが現代的トルコ国民国家の統合を脅かす可能性があることから、国家の領域内から(各民族グループを)消滅させる必要があった、と信じられている。[26][27][要ページ番号]
ドイツ帝国の軍隊の随行員によれば、オスマン政府の大臣エンヴェル・パシャは1915年10月に「彼がアルメニア問題を解決したと信じ[た]同様の方法で、戦争中にギリシア人問題を解決する」ことを望むと宣言した、としている。[28]
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