キエフの戦い (1941年) キエフの戦い (1941年)の概要

キエフの戦い (1941年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 01:17 UTC 版)

キエフの戦い (1941年)
戦争第二次世界大戦独ソ戦
年月日1941年8月23日 - 9月26日
場所ソビエト連邦 キエフ
結果:ドイツ軍の勝利
交戦勢力
ドイツ国 ソビエト連邦
指導者・指揮官
ゲルト・フォン・ルントシュテット
ヴァルター・フォン・ライヒェナウ
ハインツ・グデーリアン
エヴァルト・フォン・クライスト
エバーハルト・フォン・マッケンゼン
セミョーン・ブジョーンヌイ
セミョーン・チモシェンコ
ミハイル・キルポノス 
ミハイル・ブルミステンコ英語版 
戦力
将兵500,000名 将兵627,000名[1]
損害
戦死・戦傷:100,000名 700,544名[1]

戦死・戦傷:163,600名
捕虜:452,700名

独ソ戦

この包囲戦はバルバロッサ作戦の一環として1941年8月23日から9月26日まで続いた。ソビエト赤軍の歴史においては1941年7月7日から9月26日までとされており、キエフ防衛作戦(ロシア語: Киевская операция)と呼ばれている。

ドイツ軍のバルバロッサ作戦により、ソビエト南西方面軍の将兵約665,000名が包囲されていた。しかし、キエフはまだ包囲されておらず、ドイツ軍の包囲がキエフ東側で完成した時、南西総軍司令官セミョーン・ブジョーンヌイ元帥、西部方面軍司令官セミョーン・チモシェンコ元帥、政治委員ニキータ・フルシチョフらは、すでに包囲網から脱出していた。とは言え、この包囲戦はソビエト赤軍にとって、先例の無い大敗北であり、その損害は1941年6月から7月のミンスクの戦いを上回った。9月1日、ソビエト南西方面軍は75万2000から76万の将兵(予備、支援部隊を含むと85万)砲門、迫撃砲3,923門、戦車114両、航空機167機が配属されていた。

ドイツ軍はソビエト赤軍将兵452,700名、大砲、迫撃砲2,642門、戦車64両を包囲したが、その内、約15,000名は10月2日までに包囲から脱出した。全体として、ソビエト南西方面軍は犠牲者700,544名を出し、その内、616,304名がキエフでの戦いの1ヶ月間で戦死するか捕虜となるかで喪失した。その結果、ソビエト赤軍第5軍、第21軍、第26軍、第37軍の4個軍とその配下、43個師団が消滅、残りの第40軍は大損害を受けていた。そのため、ソビエト南西方面軍は戦力のほとんどを喪失した。


  1. ^ a b Glantz 1995, p. 293.


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