エクアドルの歴史 スペイン植民地時代

エクアドルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 13:34 UTC 版)

スペイン植民地時代

キトのサン・フランシスコ教会。

1526年スペイン人の植民地が建設されていたパナマから、征服者を指揮するフランシスコ・ピサロが内戦によって引き裂かれたインカ帝国の現エクアドル海岸部に上陸した[3]。ピサロは一旦スペインに帰国した後、1531年に再びインカ帝国に上陸し、インカ帝国に征服された諸部族、特にトメバンバ(現クエンカ市)の協力を利用して情勢を有利に導き[3]、1532年11月にカハマルカの戦いにて皇帝アタワルパを捕らえ、身代金が支払われた後の翌1533年7月26日にアタワルパを処刑した[4]。現在のエクアドルに相当する地域では、カニャーリ人英語版と結んだスペイン人のセバスティアン・デ・ベナルカサールが現地の武将ルミニャウイを打倒して征服を完了し、1534年8月28日サン・フランシスコ・デ・キートを建設した[5]

征服後、現在のエクアドルに相当する地域はペルー副王領の一部に編入され、スペイン人による植民地支配が始まった。キトはペルー副王領の統治下に置かれ、副王領の首都はペルーのリマに置かれた。1563年にはキトにアウディエンシア(聴聞庁)が設置された[3]。ペルー副王領の行政組織は第五代副王フランシスコ・デ・トレド(任:1569-1581)によって整備された[6]。征服以降インディオと呼ばれるようになった先住民はレドゥクシオンに強制集住させられ、またミタ制のような先住民強制労働制度の整備に従って、アルト・ペルーポトシ鉱山にて酷使させられ、重労働と疫病により先住民人口は激減した[7]。植民地時代が下るとメスティーソスペイン人と先住民の混血者)が増加し、また、アフリカから黒人奴隷(アフリカ系エクアドル人)も連行され、植民地時代中にスペイン人を頂点とするピラミッド型の人種主義社会が築き上げられた[7]。およそ300年のスペインの植民地支配の間に、土着の人々はスペインの国教だったキリスト教カトリック教会に改宗した。

1717年にサンタ・フェ・デ・ボゴタを中心にしたヌエバ・グラナダ副王領が成立すると、1718年にキトのアウディエンシアは廃止されたが、1722年にアウディエンシアは復活し、再びペルー副王領に組み入れられた[8]

18世紀後半頃から徐々にクリオーリョ(土着のスペイン人)と、本国から派遣されてくるペニンスラールの利害の対立が大陸的な規模で深まることになり、ペルートゥパク・アマルー2世の反乱や、アルト・ペルー(現在のボリビア)のトゥパク・カタリの反乱、ヌエバ・グラナダ(現在のコロンビア)のコムネーロスの反乱などに繋がることになったが、現在のエクアドルに相当する地域ではクリオーリョ自治運動は大きく発展しないまま19世紀を迎えた。







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