イヴァノヴォ 歴史

イヴァノヴォ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 09:45 UTC 版)

歴史

昇天聖堂(ヴォズネセンスキー聖堂)。19世紀末に建設されたが1937年に取り壊された

イヴァノヴォの街の名は1561年に文献に現れている。もとは亜麻から織物を作る村だったイヴァノヴォは17世紀には商業都市となり、1710年ピョートル大帝により織物工場が建設された。19世紀にはイヴァノヴォはロシアの繊維産業を牽引し、ロシアのマンチェスターとも称される繁栄期を迎える。隣接する工業都市ヴォズネセンスキー・ポサド(Вознесенский Посад)を1871年に合併してイヴァノヴォ・ヴォズネセンスクと改名した(1932年に正式名称をイヴァノヴォに戻している)。

20世紀初頭、イヴァノヴォはポーランドの繊維工業都市ウッチ(当時はロシア帝国領)とヨーロッパ第一の繊維生産都市をめぐり競争を繰り広げていた。しかし労働者の生活条件は劣悪でストライキも頻繁であった。これらのストライキのうちの一つがロシア第一革命1905年)へとつながっている。1905年5月にはイヴァノヴォの労働者がイヴァノヴォ・ソヴィエト(労働者による評議会、議会)を作ったが、これはサンクトペテルブルクのソビエトと並びロシア最初期のソビエトの一つである。

第二次世界大戦後、第48収容地区(グラーグ)が設置され、シベリア抑留を受けた日本人捕虜が遠路移送されてきた。捕虜は強制労働に従事した[3]

経済と文化

イヴァノヴォ化学技術大学

現在も主な産業は繊維工業であるが、ほかにも化学工業機械工業も立地する。繊維業はソ連崩壊後打撃を受けており、繊維業の盛んなイヴァノヴォ州の経済はロシア国内でも厳しい部類に入る。またイヴァノヴォ州立大学、イヴァノヴォ医科大学、イヴァノヴォ州立電力大学などもある。ソ連時代の1933年に、世界の共産党指導者の子弟が通う「インタードーム」学校が建てられている[4]

イヴァノヴォには美術館や博物館があり、イコンバロック美術、近代美術を所蔵する。また構成主義建築やアール・ヌーヴォーの建物が多く残り、市のオペラ座は構成主義建築の好例である。

姉妹都市


  1. ^ city population”. 2023年5月16日閲覧。
  2. ^ “歴史を動かした異端派、ロシア革命100年 青木睦・論説委員が聞く”. 東京新聞 TOKYO Web. (2017年9月23日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2017092302000199.html 2020年4月11日閲覧。 
  3. ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、186頁。ISBN 9784562049318 
  4. ^ Vozhdaeva, Oxana (2013年10月4日). “How children of the world united at a Soviet school” (英語). BBC News. 2015年5月10日閲覧。


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