アル・カポネ 生涯

アル・カポネ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 00:52 UTC 版)

生涯

生い立ちから暗黒街まで

アルと母のテレサ

1899年1月17日、アル・カポネはニューヨーク州ニューヨークブルックリン区にて、イタリアのカンパニア州サレルノ県アングリ出身のイタリア系アメリカ人の家庭に9人兄弟の四男として誕生した[2]。父のガブリエーレは理髪師であり、母のテレーザは裁縫婦であった。

少年時代のアルは6年生まで成績も良かったが、その後は学校をサボタージュするようになった。7年生に進級する頃、担任の女性教師に注意され、殴り合いの喧嘩となって2度と学校には行かなかったという。この頃のアルは遊び好きで、洒落た服を着て外出してはしゃいだりした。また、ビリヤードの名手で町のチャンピオンであったという。

幼友達だったエドワード・ディーン・サリヴァンによれば、アルは無邪気な少年で酒は一滴も飲まなかったが、「アドニス社交クラブ」という暴力の巣窟のような店に出入りしていたという。ここでアルはの扱い方を覚え、イタリアン・マフィアの幹部ジョニー・トーリオ[3]とも出会った。

まだ駆け出しの頃、アルはトーリオの紹介でフランキー・イェールと出会う。アルはイェールに気に入られ、彼の店である「ハーヴァード・イン」で皿洗い・給仕・バーテンダー・用心棒まで何でもこなした。そしてイェールに認められて本格的に暗黒街に入った。その時、アルはシチリア出身では無かったためマフィア本流には加われなかった。

1920年(1919年や1921年とする説もある)、アルはトーリオに呼ばれてイリノイ州シカゴへ行った。この頃、アルは、ホワイト・ハンドを痛めつけたため、ボスのワイルド・ビル・ロベットから狙われていた。他にも2件の殺人事件に関与し、起訴されそうでもあった。

そのため、アルにとってこのシカゴ行きは丁度良かった。シカゴへ行く時、アルは友人のラッキー・ルチアーノから2万ドルの餞別をもらったという。シカゴでは、アルは最初ジム・コロシモの売春宿でポン引きなどをしていた。この下積み時代に不正事業を組織化して反対派と和解するトーリオの手法を見習ったという。

その後、アルは1年と経たないうちに、トーリオの犯罪帝国で出世し、賭博場兼売春宿の支配人になった。「雇われ人」から「パートナー」に昇進したアルは、もう以前のように客引きなどをする必要はなくなった。この頃、アルはすでに2万5千ドル近い年収を稼ぐ実業家になっていたという。さらにアルはシカゴに自分名義で家を購入し、ブルックリンから家族を呼んだ。妻子だけではなく母や兄弟たちも呼んだ。その後、ウィリアム・E・ディヴヴァーがシカゴ市長になると政治改革が続くと考え、事業の本部をシセロへ移した。

ダイオン・オバニオンを暗殺[4]した頃から、アルは自分も暗殺されるのではないかという恐怖から警備が厳重になった。どこに行くにも両脇に2人のボディーガードを連れて行き、外出には必ず車を使った。この時期、自宅以外1人でいることは無かったという。

1925年1月12日にハイミー・ワイスとスキーマー・ドルッチとジョージ・モランは最初のカポネ暗殺を企て、アルの車にトミーガンで攻撃した。ボンネットが引き裂かれ、エンジンが壊れるほどの威力であった。運転手は負傷したが、アルは車にいなかったため無事だった。その後トミー・クイリンジョーネという若い運転手が誘拐されて殺害されるという事件があった。

暗黒街の顔役

1925年にジョニー・トーリオが敵に襲われて引退すると、アルは組織の縄張りを譲られ、26歳にして組織のトップに立った[5]。アルは酒の密売でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。さらにウィリアム・ヘイル・トンプソンをはじめ、市議会議員、警察などの官憲を買収して、アルは組織の勢力の拡大と安泰化を図った。1920年代のアル・カポネは、実質的に市長ともいえる存在となっていた。1927年頃にはシカゴで有名人となり、1929年にカポネ一家の年間の収益は6200万ドル(現在の貨幣価値に換算すると8億3千万ドル)にもなった。

また、アル・カポネはジャズの大ファンであり、秘密の酒場や会員制クラブで、黒人ジャズ・ミュージシャンに演奏させた[6]。また、黒人やユダヤ人に対して人種差別をしなかった。シカゴのギャングたちは、カポネ以外にもジャズ・ファンが何人もいたという。カポネは白人が密造ウイスキーを扱うと断固たる姿勢を示したが、黒人が密造酒を扱った場合は、それを認めていた。

部下のジャック・マクガーンが「ジョージ・“バグズ”・モラン一味を抹殺すべきだ」と言ったとき、アルにとってもモランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため、それに同意し、彼に1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束をした。

そして1929年2月14日、「聖バレンタインデーの虐殺」は実行された。この事件は全米のマスコミに大きく取り上げられた。虐殺が行なわれた当時、アルはマイアミ・ビーチに滞在していた。警察はアルを疑い電話の記録を調べたが、事件の前後数日間はシカゴからの記録もなかった。

1929年5月、アトランティック・シティで行なわれた暗黒街の会議の後、アルは拳銃の不法所持で自作自演で「逮捕」された。その理由は、「聖バレンタインデーの虐殺」でカポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味だった。このことも会議の議題の一つになっていた。

アル・カポネの刑期は1929年5月17日から1930年3月17日の10ヶ月間だった。刑務所内ではアルは言うまでもなく特別待遇だった。一部資料によると莫大な利益を上げているアル・カポネと、ニューヨークやその他のギャングの仲が悪くなり、アル・カポネが身の危険を感じたためだという話もある。

1930年の暮れ、逮捕を逃れるため、アルはシカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日に3度、無料の食事を提供した。「無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かる」とアルは言っていた。このことは新聞などでも報じられ、市民は歓迎した。しかし、実際には経費のほとんどはアル・カポネ自身が負担したのではなく、地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに寄付させたもので、彼らはアルの言いなり状態だったという。

アメリカ合衆国 対 アル・カポネ

フーヴァー政権下で財務長官アンドリュー・メロンの号令のもと、所得税の脱税と、ボルステッド法違反の両面からアル・カポネに対する追及が進められた。特に後者で密造酒関係の調査を行なったエリオット・ネスのチームは「アンタッチャブル」と呼ばれ世間の耳目を集めたが、最終的に脱税を主としてカポネは告発された。

1931年10月7日にアル・カポネの脱税裁判が始まった。裁判ではかつてカポネ帝国の会計係だったフレッド・リースが証言台に立ち賭博場のことなどを証言した。アルは合計11年の懲役、罰金5万ドルの有罪判決を受けた[7]。刑を宣告されたとき、アルは自分が予想していたよりも過酷な宣告だったため、微笑は苦いもので今にも怒りが爆発しそうだったという。

アルは裁判が始まる前に、陪審員候補者のリストを入手して1人1,000ドルで買収した。しかし、このことはアルの一味だったエドワード・J・オヘアが事前に密告したため、開廷するや陪審員を入れ替えられてしまい、目論見が外れた。アル・カポネは事前に陪審員を買収したということもあって、彼の弁護士は裁判での弁護を怠っていたといわれている。

刑務所へ

1931年10月24日、アルはイリノイ州クック郡刑務所に入った。この刑務所でアルは所長と職員を買収し、所長がアルの機嫌をとっていたという。レキシントン・ホテルに住んでいたころと変わらない豪華な生活をしており、そこから以前と同じように組織を動かしていた。しかし1932年5月2日、アルにとって最後の望みであった再審請求は最高裁から退けられた[8]。この時、アルはかなり失望したという。

1932年5月3日の午後、アルは家族に別れを告げて列車でジョージア州アトランタの刑務所へ向かった。この時アトランタへ向かうアルを見ようと来たエリオット・ネスがおり、アルとネスは少し話をしたという。アルとネスが会ったのはこの時が最後である。

アルがアトランタ刑務所に入った頃、新聞には「アル・カポネが刑務所を牛耳っている」と書かれていたが、実際には逆で、アルが他の囚人の標的になっており、「酒と女はどこにある、デブ」などと罵倒されたりもした。しかし、刑務所内では娑婆にいた頃、アルに世話になった者もいて、そういった連中はアルの味方になった。ここでのアルの仕事は靴工場で靴の修理だった。毎日8時間電動ミシンで靴底を縫い合わせていたという。

アルカトラズ刑務所

アルカトラズ刑務所のカポネ

1932年8月22日にカリフォルニア州サンフランシスコアルカトラズ刑務所に到着。囚人は列車から船に乗り換えて刑務所に移送されるが、カポネの逃亡及び奪還を恐れた当局は、客車から彼を降車させず、客車をはしけに乗せて、直接刑務所まで船でけん引して移送した。囚人番号は「Az-85」号である。

刑務所の中では、風呂場の掃除係として従順に刑に服しており、他の囚人からは「wop with the mop(「モップを持ったイタリア野郎」の意。wop(ウォップ)はイタリア系に対する蔑称)と呼ばれていた。刑務所所内での態度は良好で、週末には囚人仲間とバンジョーを演奏して楽しんでいたという。しかし、次第に若年時に感染した梅毒が悪化し始める。

1936年に囚人によるストライキがあったが、アルは参加しなかった。このことで他の囚人から「妻と子を殺してやる」などの脅しを受けた。すると、アルは独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。この子供じみた行動も、梅毒による痴呆症状だが、看守や囚人たちはそれと知らないので、長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうと思っていた。

ストライキに参加しなかったことで恨まれたアルは、同年6月23日に散髪所にいたところを、囚人のジェームズ・C・ルーカス英語版によって、背後から剃刀で切りつけられた。アルはルーカスを壁に叩きつけて反撃し、ルーカスは独房送りになった。

連邦矯正施設へ

その後、アルの梅毒はますます悪化し、心身は衰弱していった。1938年の検査で初めて梅毒が発覚し、刑務所の医師は症状の改善を期待してマラリアを接種したが、ほとんど効果は無かった。

1939年1月にロサンゼルス近くの連邦矯正施設に移送され、そこで残りの刑期の1年近くを過ごす。同年10月25日、連邦捜査局捜査官のD・W・マジーがアルを面会した。彼はこの時の面会について、アルは現実と妄想の区別が付かず、理性を失っていたと感じたという。

出所から死亡まで

1939年11月16日、アルは釈放された。このときのアルは、クック郡刑務所に入るときの身なりがよく自信に満ちあふれた人物とは別人であったという。出所後、アルはボルチモアのユニオン記念病院で、梅毒の治療を受けることになる。

4ヶ月の治療の後、アルと家族はフロリダのパームアイランド島にある家で生活する。この頃、アルの家には暗黒街の人間が訪れてきて、アルと雑談をしたり他の兄弟と商談をしたという。

第二次世界大戦が終結する1945年、アルは梅毒治療として、民間人で初めてペニシリンを投与されたが、病気が進行しすぎていたため、効果はなかった。

1947年1月25日土曜日の東部標準時午前7時25分、アルは脳卒中に伴う肺炎により死亡した。48歳没。出所してから死亡するまで、かつて牛耳ったシカゴへは戻ることはなかった。アルは土曜日に死亡したので、各紙の日曜日版には大きく報じられた。ニューヨーク・タイムズはこのことを「悪夢の終わり」と伝えた。1947年2月4日に行われた葬儀の会葬者の中には、かつて「アルの側近」だったジェイク・グージックや、後に「シカゴの大物ボス」になるマレー・ハンフリーズの姿もあった。

アルが死んだ後、シカゴ暗黒街のボスはフランク・ニティ、ポール・リッカトニー・アッカルドサム・ジアンカーナサム・バッタグリア英語版と引き継がれていく。


注釈

  1. ^ 「カポネ」は日本語での表記であり、イタリア語の音声表記([kaˈpoːne])は「カポーネ」、英語の音素表記(/ˈkəˈpoʊn/[1])は「カポウン(カポーン)」が近い。
  2. ^ 資料によってはルチアーノではなくジョー・マッセリアとするものもある。

出典

  1. ^ the definition of al capone”. Dictionary.com. 25 3 2020閲覧。
  2. ^ Al Capone Bio 2023年10月2日閲覧
  3. ^ J. Torrio 2023年10月2日閲覧
  4. ^ Capone foes 2023年10月7日閲覧
  5. ^ 「トーリオ一家vs.オドンネル一家 禁酒法下のシカゴで「ビール大戦争」 24歳の”代貸”アル・カポネ売り出す!」『日録20世紀』第1巻第28号、1997年9月9日、38-40頁、CRID 1130282269046488704 
  6. ^ 「欲望という名の音楽」 二階堂尚 p.206. 草思社
  7. ^ 「犯罪王カポネ禁固11年」『読売新聞』、1931年10月26日、夕刊、2面。
  8. ^ 「カポネの上告棄却/アメリカ」『読売新聞』、1932年5月4日、夕刊、2面。
  9. ^ マフィアグッズ専門店”. 2021年4月8日閲覧。
  10. ^ 2015年 公演ラインアップ【シアター・ドラマシティ、東京特別】<5月~6月・雪組『アル・カポネ ―スカーフェイスに秘められた真実―』>”. 宝塚歌劇団 (2014年11月20日). 2014年11月20日閲覧。
  11. ^ 「第23回読売演劇大賞」上半期ベスト5が発表に”. シアターガイド (2015年7月28日). 2015年7月30日閲覧。





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