アメリカ合衆国西部 歴史と文化

アメリカ合衆国西部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/15 16:38 UTC 版)

歴史と文化

アメリカ映画産業のメッカ、ハリウッド

西部は太平洋とメキシコ湾を境界としているために、さまざまな民族集団によって形作られてきた。ハワイはアジア系アメリカ人の人口がヨーロッパ系アメリカ人のそれを上回る唯一の州である。1800年代以降何回かの波があったが、多くのアジアの国からカリフォルニアや他の海岸州に移民して来て、ゴールドラッシュ大陸横断鉄道の建設、農業およびごく最近ではハイテクノロジーに貢献してきた。

南西の国境沿いにあるカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコおよびテキサスの諸州はメキシコ系アメリカ人の人口が多く、以前メキシコ領であった歴史を多くのスペイン語の地名が証明している。

西部には合衆国の先住民の多くも住んでおり、特に山岳州や砂漠州の大規模居留地に多い。

テキサスはかって南部の奴隷州であったので、特にその東半分にはかなりの数の移民ではない、田園に住むアフリカ系アメリカ人が住んでいる。

太平洋岸諸州においては、小さな町、農場および森林のある広い地域が、メディアや技術産業の世界的中心となった幾つかの大きな港湾市に補完されている。合衆国で第2の都市であるロサンゼルスはハリウッド映画産業があることでもよく知られている。ロサンゼルスの周りの地域は第二次世界大戦の時に主要な航空機産業の中心となった。ボーイングはワシントン州にあるが、航空機産業をリードする存在である。ロサンゼルスの成長とシリコンバレーを含むサンフランシスコ湾地区の発展によってカリフォルニア州は全米で一番人口の多い州となった。オレゴンとワシントンもボーイングやマイクロソフトの隆盛に加えて農業や資源に基づく産業によって急速に発展している。砂漠州と山岳州は比較的人口密度が小さく、放牧や採鉱地区として発展したが、最近になって都市化が進むようになった。これらの州には高度の個人主義文化があり、都市開発、余暇および環境との興味のバランスを保ってきた。合衆国最北端のアラスカは、広い領土に少ない人口であるが、多くは誠実な先住民である。広い範囲に自然が残されており、国立公園や野生生物保護区として保護されている。ハワイの位置はアメリカとアジアの間の主要な玄関であり、観光の中心ともなっている。

文化的にはっきりと異なる点は南東部のアイダホ州の南東部、ユタ州、アリゾナ州の北部およびネバダ州に多くのモルモン教徒がいることである。また、ネバダ州ラスベガスやリノの浪費型カジノ保養地や、もちろん多くのアメリカ・インディアン保留地も特徴である。

古西部

アメリカ合衆国東部の諸州からオレゴン・トレイルを通って西部領土へ多くの移民があったのは1840年代からである。1849年カリフォルニア・ゴールドラッシュによって、カリフォルニアは数ヶ月間という短期間で急速な拡大を遂げ、1850年には他の州が経験したような準州という移行期を経ずしていきなり州に昇格した。アメリカの歴史で最大の移民は、末日聖徒イエス・キリスト教会が西部での安全を求めて中西部を離れた1840年代に起こった。1850年代は南北戦争に導く国家的問題の一部をなした政治的な議論が特筆される。この中で1850年の和解によりカリフォルニアは奴隷を認めない自由州として設立された。カリフォルニアは南北戦争の時は、主戦場から遠く離れていたためにほとんど役割が無かった。南北戦争の終戦後、多くの元アメリカ連合国支持者がレコンストラクションの最終期にカリフォルニアに移民してきた。

カウボーイ 1887年頃

19世紀遅くから20世紀初めのアメリカ西部の歴史は、文学や映画の世界で文化的ミトスを生んだ。カウボーイのイメージ、入植者および西方への拡張は実際に起こったことであり、少なくとも1920年代以降のアメリカ文化に影響を与えた西部の神話となっていった。

マーク・トウェイン、ブレット・ハートおよびゼーン・グレイといった作家達がカウボーイの文化を賞賛したりけなしたりする一方で、フレデリック・レミントンのような美術家達は西部開拓を記録する方法として西部美術を作り上げた。特にアメリカの映画は西部劇というジャンルを創出し、多くの場合は自立自尊とアメリカ気質という美徳に対する喩えとして西部を使った。西部について文化のロマン主義と西部開拓史の現実との対照は、20世紀遅くから21世紀初めにかけての西部に関する学会のテーマとなってきた。カウボーイの文化はアメリカの経験の中で共通の文化的試金石として埋め込まれ、現代ではカントリー・アンド・ウェスタンや画家ジョージア・オキーフの作品といった形で、人の少ない気候も厳しい地域で精神に吹き込まれた孤独や独立の感覚を賞賛してきた。

急速な発展を経験した結果として、多くの新しい住民は個人的な失敗や前の共同社会での敵意などの前歴を持って、新しい出発をするためにまた新たな土地に動いた。新たな土地でより実務的な目標を抱いてやって来たこれらの人々によって、その地域では自己決断力や個人的自由の強い精神を発展させ、その住人は前もっての関係も無く共通の観念や忠誠心も無い共同社会を作り上げた。この地域の広々とした土地があって、住人は東部の都市よりも隣人から距離を置いて住むことができるようになり、他人の異なる価値観や目的を認める倫理観が発達した。カリフォルニア州憲法は、個人の財産権や個人の自由に重きを置き、市民社会の方向に向かう理想を犠牲にする集団によって起草された。

20世紀

1890年までに辺境は消滅した[1]。ニュース映画では、テキサスやオクラホマの石油ブームの町について、古い鉱山と比べてその無法振りを報告し、ダスト・ボウル(砂塵嵐)が元々の開拓者の子孫がさらに西へ行くことを余儀なくされたと伝えた。映画は三文小説に代わって西部の作り話を表す娯楽の花形になった。

自動車の発明は普通のアメリカ人が西部へ旅することを可能にした。西部の実業家は西部へ観光客や産業を運ぶ手段としてアメリカ国道66号線の建設を促進した。1950年代、西部の州の代表がカウボーイの殿堂と西部遺産センターを建設し、西部の文化を紹介し東部からの観光客を迎えた。20世紀の後半、西部を横切る大陸横断州間高速道路が東部からより多くの公益チャンスと観光客を運んできた。

最近の数十年間、西部の都市の多様性と寛容の精神の評判が人種差別によって損なわれ、少数民族に対する人種的分析と警察による残酷な行為の告発と共に、時には人種問題による暴動に発展した。それにも拘らず、おそらく多くの西部住民が新しい出発をするために他の地域から移ってきたので、概して個人間の結びつきは寛容さと個人主義的「お互いに邪魔せずやっていく」態度に残されている。たとえばカリフォルニアはその経済の主要な部分として農業とハイテク産業が共存している。


注釈

  1. ^ 実はこれは白人視点で、アメリカインディアンが既にいた。

出典

  1. ^ Turner: The Frontier In American History, Frederick Jackson Turner, The Significance of the Frontier in American History, 1920, ISBN 0-486-29167-7, Ch.1: "In a recent bulletin of the Superintendent of the Census for 1890 appear these significant words: "Up to and including 1880 the country had a frontier of settlement, but at present the unsettled area has been so broken into by isolated bodies of settlement that there can hardly be said to be a frontier line. In the discussion of its extent, its westward movement, etc., it can not, therefore, any longer have a place in the census reports." On-line version of the book





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