2度目のタヒチ滞在とは? わかりやすく解説

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2度目のタヒチ滞在

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 20:22 UTC 版)

ポール・ゴーギャン」の記事における「2度目のタヒチ滞在」の解説

ゴーギャン1895年6月28日、再びタヒチ向けて出発した一つ原因は、『メルキュール・ド・フランス1895年6月号に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレール(英語版)がそろって自身批判する記事書いたことにある。パリ美術界孤立したゴーギャンは、タヒチ逃げ場求めるほかなかったといわれている。 同年9月タヒチ着きその後6年間のほとんどをパペーテ周辺画家コミュニティ暮らした徐々に絵の売上げ増加しつつあり、友人支持者支援もあったため、生活は安定するようになった。ただ、1898年から1899年にはパペーテ事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録余り残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕なプナッアウイア(英語版地区に家を建て、広大なアトリエ構えた好きな時にはパペーテ行って植民地社交界顔を出せるよう、馬車持っていた。『メルキュール・ド・フランス』を購読しパリ画家画商批評家パトロンたちと熱心に手紙やり取りをしていた。パペーテにいる間に、地元政治では次第大きな発言権を持つようになり、植民地政府批判的な地元誌『Les Guêpesスズメバチ)』に寄稿し更には自ら月刊誌Le Sourire(後に『Journalchant』)』を編集刊行するようになった1900年2月には、『Les Guêpes』の編集者就任し1901年9月に島を去るまで続けた。彼が編集者務めていた間の同誌は、知事官僚対す口汚い攻撃特徴であったが、かといって原住民権利擁護しているわけでもなかった。 少なくとも最初1年は、絵を描かず彫刻集中していることをモンフレーに伝えている。この時期木彫り彫刻が、モンフレーのコレクションとして少数残っている。『十字架キリスト』という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻仕上げているが、ブルターニュ地方キリスト教彫刻影響を受けたもの思われる。絵に復帰すると、『ネヴァモア』のように、性的イメージはらんだヌードを描くようになるこの頃ゴーギャン訴えようとした相手は、パリ鑑賞ではなくパペーテ植民者たちであった。 しかし、健康状態はますます悪くなり、何度も入院したフランスにいた当時、彼はコンカルノー訪れた際に酔って喧嘩をし、足首砕かれる重傷負ったが、この時の骨折完治していなかった。その治療にはヒ素用いられたため、余計に健康を害することとなったまた、ゴーギャン湿疹訴えていたが、現在では、これは梅毒進行を示すものと推測されている。 1897年4月、彼は、最愛の娘アリーヌが肺炎亡くなったとの知らせ受け取った。同じ月、土地売却されたため家を立ち退かざるを得なくなった銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしたが、身の丈合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権行使されそうになった悪化する健康と借金重荷の中、失意の縁に追い込まれゴーギャンは、同年に自ら畢生傑作認め大作われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。モンフレーへの手によれば作品完成の後、自殺試みたという。この作品は、翌1898年11月、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示された。これは、1893年デュラン=リュエル画廊開いて以来パリでの個展であり、今度批評家たちも肯定的な評価下した。ただ、同作賛否両論でもあり、ヴォラールはこれを売るのに苦労した1901年にようやく2500フラン販売されそのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。 ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリ画商通じてゴーギャンから絵を購入していたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接契約締結した。この契約で、ゴーギャンは、毎月300フラン前渡金受け取とともに少なくとも25点の作品を各200フラン売り、その上画材の提供を受けることになったゴーギャンは、これによって、より原始的な社会求めてマルキーズ諸島移住するという計画実現できる考えた。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らしたゴーギャンは、タヒチ良い粘土入手できなかったことから、陶器作品続けることができなくなっていた。また、印刷機がなかったため、モノタイプ (版画)(英語版)を使わざるを得なかった。 ゴーギャンタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナッアウイア地区住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳であった。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子生後間もなく亡くなり男の子パウラ育てたパウラは、ゴーギャンマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った。 『十字架キリスト』(1896年)からの転写反転)。ボストン美術館。 『ネヴァモア』1897年コートールド美術研究所。 『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年。ボストン美術館。 『3人のタヒチ人』1899年。 『夜(悪夢)』1899–1900年モノタイプJ・ポール・ゲティ美術館。 『邪悪な精のついたタヒチ女性1899-1900年モノタイプシュテーデル美術館

※この「2度目のタヒチ滞在」の解説は、「ポール・ゴーギャン」の解説の一部です。
「2度目のタヒチ滞在」を含む「ポール・ゴーギャン」の記事については、「ポール・ゴーギャン」の概要を参照ください。

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