たかた‐さなえ〔‐さなへ〕【高田早苗】
高田早苗
高田早苗
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高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家・政治学者・教育者・文芸批評家。学位は、法学博士。号は半峰。
- ^ 東京専門学校時代の学生 – 早稲田ウィークリー
- ^ a b 内田満『政治の品位』東信堂、2007年、170頁。
- ^ 高田早苗 著『半峰昔ばなし』,早稲田大学出版部,昭和2.
- ^ 読売新聞1910年(明治43年)9月25日、市島謙吉「予が在社時代(一)度々の発行停止」に、「自分の貴社に迎へられ主筆の席を汚したのは廿三年の末頃かと覚えます」「高田君は株主を兼ねた主筆でありましたが廿三年国会が開けて議員となり政治に奔走が忙はしく社務を日々見ることが出来ぬと云ふ所から自分が代つたのであります」とある。
- ^ 読売新聞1897年(明治30年)4月11日「高田早苗氏の退社」は、高田早苗氏は「此度外務省通商局長に任ぜられしに付自今全く本社と関係を絶つこととなれり」と報じた。同1905年(明治38年)4月8日、一万号記念号での「祝辞」で高田は「既往七年の間に於て、吾れは唯社員たるに止りて、又稿を寄せず、特に昨年末以降は専ら身を育英の事業に委ぬるの必要より全然社員たるの関係をさへ絶つに至れり」と述べた。宮武外骨・西田長寿『明治新聞雑誌関係者略伝』みすず書房<明治大正言論資料20>、1985年の「高田早苗」の項は、「『読売新聞』との密接なる関係は明治三五、六年までであるようだが、明治二三、四年頃から東京専門学校出身者を多く同紙に送っていることは注目せねばならぬ」と評する。
- ^ 『官報』 第838号、大正4年5月20日。
- ^ 佐藤能丸 『志立の明治人・上』 芙蓉書房出版、2005年、150-151頁。
- ^ 佐藤能丸 『異彩の学者山脈』 芙蓉書房出版、1997年、24頁。
- ^ 日本放送協会 『20世紀放送史』 上、2001年、32頁
- ^ 早稲田大学百年史 第三巻/第七編 第二章
- ^ 早稲田大学百年史 第三巻/第七編 第四章
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
- ^ 早稲田人名データベース [1]
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
高田早苗(たかだ さなえ)
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「将太の寿司」の記事における「高田早苗(たかだ さなえ)」の解説
デパートの地下食品売り場で持ち帰り専門の寿司店「寿司仙」に勤務する福岡県代表で決勝進出者の一人。宮崎県出身だが、15歳から福岡に上京。現在は福岡暮らしの方が長いため「オイは──」「ばってん」「──とよ」など、福岡の方言を使う。「高田」は親戚の苗字で、旧姓は「宮下」。完全な独学で寿司握りを習得した変わり者だが、「漬け込み」の技術は相当に高い(特に沖漬けは、食べた将太が、佐治が加藤以蔵戦で披露し圧勝した海老の沖漬けより上だと感じたほど)。決勝ではピリピリした雰囲気の他3名と違って飄々とした雰囲気で誰とも特に敵対するような言動もなく、「こういうのは祭り。みんなで楽しく盛り上げていきましょう。」と笑い飛ばし、得意分野を生かして最後まで食らいついていた。
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