題名「困苦の時」あるいは「ネルソン」の由来
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「ネルソン・ミサ」の記事における「題名「困苦の時」あるいは「ネルソン」の由来」の解説
本作品を作曲した1798年には、ハイドンの名声は頂点に達していた。しかしながら、ハイドン自身は不安と混乱の渦中にあった。ナポレオンが1年足らずの間にオーストリアに対して4回も戦勝をおさめていたのである。その前年、1797年には、ナポレオンが率いるフランス軍はアルプスを越えウイーンを脅かしていた。1798年5月には、イギリスの交易路を絶つためにエジプトへ遠征を行っていた。 かくして、1798年の夏はオーストリアにとって恐怖の時代であり、ハイドンは作品目録において自らこの作品を「困苦の時のミサ (Missa in Angustiis)」と名付けた。 初演は9月15日であったが、8月1日にはナイルの海戦でホレーショ・ネルソンの率いるグレートブリテン王国艦隊がフランス艦を撃退していた。この偶然の一致ゆえ、本作品は次第に「ネルソン卿のミサ (Lord Nelson Mass)」と呼ばれるようになった。1800年には、ネルソン自身がエマ・ハミルトンとともにエステルハージ宮殿を訪れ、おそらく本作品の演奏を聴いた。この出来事によって、「ネルソン卿のミサ」という呼称は決定的なものとなった。 ハイドン「困苦の時」と名付けたのは、上述のような時代背景に加えて、ハイドン自身がその数ヶ月前に「天地創造」の作曲および初演を行って相当疲弊していたからであるとも考えられる。また、より単純な理由として、木管楽器を欠いた不満足な楽器編成を強いられたことによるのかもしれない。 4パートある独唱のうち、ソプラノとバスには特に技巧的である。バスパートはおそらくChristian Spechtのために、そして、バス以上に高い技術が要求されるソプラノパートは、おそらくBarbara PilhoferあるいはTherese Gassmannのために書かれた。 初演は1798年9月23日にStadtpfarr教会で行われた。初演会場は当初Bergkircheの予定だったが、わずかに変更された。
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