陸羯南の初代紙とは? わかりやすく解説

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陸羯南の初代紙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:22 UTC 版)

日本 (新聞)」の記事における「陸羯南の初代紙」の解説

1888年明治21年創刊日刊紙東京電報』の後身として、日本新聞社から発行された。 創立連判状には、杉浦重剛筆頭に、巌谷立太郎平賀義美谷田部梅吉宮崎道正、長谷川芳之助小村寿太郎高橋健三谷口直貞、中谷源六、福富孝季、河上謹一伊藤新六郎西村貞千頭清臣国府新作手島精一高橋茂 (新聞経営者)の18人が名を連ね、9ヶ月かけて六千円を分担してフランス輪転機輸入した。しかし、発行部数伸びず、その稼働率低かった社屋初め蛎殻町、のち雉子32番地(現・東京都千代田区神田司町二丁目)に移った。そこは二階建て洋館で、二階には政教社雑誌日本人』の編集室もあった。 「日本及日本人#歴史」および「雉子橋#歴史」も参照 社長主筆としては陸羯南就任し編集長先ず古島一雄、そして浅水南八・五百木瓢亭古島と代わった。初代編集部には、末永純一郎巌)・国友重章福本日南九島徳・国分青厓・桜田文吾大我)・山田烈盛三浦三郎佐藤宏[要曖昧さ回避]が就任し続けて三宅雪嶺池辺三山入社した資金谷干城浅野長勲近衛篤麿鳥尾小弥太らが援助していた。 陸は過度な欧化主義を嫌い国権伸張唱える国民主義者で、同紙は『新聞停止法』により頻繁に咎められ1888年明治21年)から 1897年までに22回、延べ131日間発行停止処分を受け、さらに、1903年にも要人への諷刺発売禁止にされた。論調は反官僚、反藩閥国粋保存対外硬中国大陸発展で、日清戦争では開戦主張した条約改正問題発生後には、社員及び関係者一気増え鳥居素川長谷川如是閑安藤正純鉄腸)・正岡子規中村不折桂湖村五百木良三瓢亭)・河東碧梧桐・阪東宣雄・岩佐善太郎佐々木正綱・浅水又次郎南人)・佐藤紅緑石井露月千葉亀雄・遣沢直幸・丸山侃堂(幹治)・井上(亀六)・末永節(嘯月)・磯野三郎入社した。ほか、社員として、関係人物項の列記のほか、沢村則辰(営業部)、宮崎道正(営業部)、今外三郎営業部)、遠山英一営業部)、沢村則辰(営業部)、井上秋剣(川柳選者)、本田種竹漢詩選者)、三浦勝太郎経済面)、古壮毅(電報翻訳係)、古莊毅、梶井盛、赤石などの名が残っている。

※この「陸羯南の初代紙」の解説は、「日本 (新聞)」の解説の一部です。
「陸羯南の初代紙」を含む「日本 (新聞)」の記事については、「日本 (新聞)」の概要を参照ください。

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