関ケ原本戦の敗北と大坂城退去
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「毛利輝元」の記事における「関ケ原本戦の敗北と大坂城退去」の解説
輝元は秀元と広家、恵瓊を出陣させ、毛利軍は伊勢国安濃津城を攻撃したのち、9月10日に南宮山に着陣した。一方、同月1日に家康も江戸を出発して西上し、12日に岐阜に到着した。 輝元は大坂城にとどまっている間、家康の西上を阻止するために軍を南宮山に布陣させ、また離反者の情報を懸命に収集した。西軍の大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告を受けている。だが、輝元は小早川秀秋が東軍に内通しているという報告も知らされていたが、最後まで対処できなかった。 一方、西軍が負けると判断していた吉川広家は黒田長政を通じて、毛利氏の本領安堵などの交渉を行った。そして、9月14日には徳川方の本多忠勝や井伊直政が広家や福原広俊に対し、「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文を提出している。このとき、広家は毛利氏の諸将と協議せず、密約を結んだといわれている。 9月15日、関ケ原で西軍と東軍が激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した。南宮山に布陣していた毛利の大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ、福原広俊が秀元の出馬を諫めたりしたため、傍観するほかなく、東軍と一戦も交えずに大坂に撤退した。退却した毛利勢は輝元のいた大坂城には入らず、大坂市中に駐屯した。 西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。輝元には秀頼を擁して、大坂城に籠城して戦うという選択肢が残されていた。また、大阪には無傷で帰還した毛利軍や、本戦に参加しなかった軍勢も多数存在した。 一方、家康は輝元に対して、17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大坂城からの退去を促した。輝元もまた、19日に家康に返書を送り、所領安堵に関してどうなるかを聞いている。9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵を条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している。 そして、9月25日に輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元、立花宗茂、島津義弘の主戦論を押し切り、自ら大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った。その後、輝元は四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。
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