関ケ原本戦の敗北と大坂城退去とは? わかりやすく解説

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関ケ原本戦の敗北と大坂城退去

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「関ケ原本戦の敗北と大坂城退去」の解説

輝元は秀元と広家、恵瓊出陣させ、毛利軍伊勢国安濃津城攻撃したのち、9月10日南宮山着陣した。一方同月1日家康江戸出発して西上し、12日岐阜到着した。 輝元は大坂城とどまっている間、家康西上阻止するために軍を南宮山布陣させ、また離反者情報懸命に収集した西軍大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告受けている。だが、輝元は小早川秀秋東軍内通しているという報告知らされていたが、最後まで対処できなかった。 一方西軍負けると判断していた吉川広家黒田長政通じて毛利氏本領安堵などの交渉行った。そして、9月14日には徳川方本多忠勝井伊直政が広家や福原広俊対し、「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文提出している。このとき、広家は毛利氏諸将協議せず、密約結んだといわれている。 9月15日関ケ原西軍東軍激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍敗北し戦い一日終結した南宮山布陣していた毛利大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ福原広俊が秀元の出馬諫めたりしたため傍観するほかなく、東軍一戦交えず大坂撤退した退却した毛利勢は輝元のいた大坂城には入らず大坂市中駐屯した。 西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論講和論が衝突した。輝元には秀頼を擁して大坂城籠城して戦うという選択肢残されていた。また、大阪には無傷帰還した毛利軍や、本戦参加しなかった軍勢多数存在した一方家康は輝元に対して17日両者良好な関係を望むとの書状送り大坂城からの退去促した。輝元もまた、19日家康返書送り所領安堵に関してどうなるかを聞いている。9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している。 そして、9月25日に輝元は所領安堵起請文受け取ると、秀元、立花宗茂島津義弘主戦論押し切り、自ら大坂城西の丸から退去し木津毛利屋敷入ったその後、輝元は四国九州毛利勢も順次撤退させている。

※この「関ケ原本戦の敗北と大坂城退去」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「関ケ原本戦の敗北と大坂城退去」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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