開発遅延
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:57 UTC 版)
このように紆余曲折はあったものの、HK-1の開発・製造は開始されることになった。しかし、当時最大の飛行艇であったマーティン・マーズの3倍もの飛行艇を作ること自体が難事業であった上、前述のように全木製とするという条件が課せられていた。全木製であっても、適切に設計すればデ・ハビランド モスキートやロッキード PV-1のような高性能機を作成することも出来たが、当時のアメリカには木製の航空機に通じた技術者は少なく、設計の参考になるデータも少なかった。また、当時の木製構造の参考書には「総重量7.3トン以上の飛行機には木は使うべきではない」とも書かれていた。ヒューズ社では、爆撃機D-2の製造において、デュラモールド(薄い木の板を合成樹脂で張り合わせた合板)に通じてはいたものの、そのままHK-1に適用できるものではなかった。 まずHK-1の製造工場を整備することになったが、この工場は幅75メートル、長さ225メートル、高さ30メートルという巨大な建造物で、鉄材が不足していたこととHK-1の積層材の技術試験を兼ねることから、全て木造で建設された。これは、当時世界最大の木造建築物であった。この工場は国防工場公社が建設して、それをヒューズ社にリースする方式をとった。 開発が始まってからも、ヒューズは細かいところまで設計についてチェックした。しかし、ヒューズは設計者と直接討議するのではなく、彼の事務所に図面や計算書を届けさせた上で、検討したうえで電話やメモなどで指示を伝えるのが通常の方法であり、この方法では意思の疎通にやや問題があった。その上、物事の決断に時間がかかる一方で、細かいところまで完璧にしないと気が済まないのがヒューズの性格であった。またそうした性格から、ヒューズ社の総支配人に気に入らないことがあるとすぐに首をすげかえた。これらの理由から、作業は遅れ気味となった。 1943年後半になると、開発の遅れは誰の目にも明らかになった。この頃にはアルミニウム合金の供給体制も安定しており、開発がスタートした頃の懸念は解消されていたことから、主翼を金属製に変更してはどうかという意見もあった。しかし、その時点で金属製の主翼に変更することは更なる開発の遅延を招き、また金属製の主翼は木製よりも軽くできることはないとヒューズが考えたので、この意見は採用されなかった。 一方で陸軍は、ヒューズ社のような小規模なメーカーが2つの航空機を同時に開発するのは無理だと判断し、国防工場公社に圧力をかけた。国防工場公社ではヒューズとカイザーに弁明の機会を与えたものの、1944年2月16日に作業を中止するように通告した。これに対して、ヒューズはワシントンに行き、政権各方面に開発続行を働きかけた。民主党のジェシー・ジョーンズが大統領に開発続行を進言し、大統領がこれを認めたことで、一旦契約を破棄した上で新規に契約を結ぶことになり、開発は続行されることになった。この時に、ヒューズの仕事の進め方に不満を持っていたカイザーは、HK-1にはもう量産の見込みがなくなっていたことも認識していたのでこの契約からは外れ、新規の契約ではヒューズ社との単独契約となった。また、当初の契約金額である1800万ドルを超過した場合は、ヒューズが負担することになった。 ヒューズ社のみの事業となったので、社内で名称コンテストを行なった結果、この航空機は「H-4ハーキュリーズ」と命名されることになった。以後、本項でも「ハーキュリーズ」と表記する。
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