鎌倉軍奉行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 01:42 UTC 版)
寿永3年(1184年)1月、源義仲討伐に従軍し(宇治川の戦い)、合戦後、大江山に派遣され京の入口を守った。同年2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦う。三草山の戦い後、義経は一万騎を二手に分け、実平は7,000余騎を引きつれ、一の谷の西の手に進んだ。合戦後、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた。山陽道を守り、源範頼の進軍を支援する。梶原景時と共に頼朝代官である範頼・義経の奉行として遠征軍に派遣されており、頼朝の信任が厚かったと思われる。鶴岡八幡宮の造営にも寄与した。 寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いの後に長門国と周防国の惣追捕使として長府に居城を構える。 文治5年(1189年)、奥州合戦に参加。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。建久2年(1191年)7月18日、厩の上棟奉行をしている記述(『吾妻鏡』)を最後に、実平は史料から姿を消している。一説には義経との関係の深さから頼朝と義経の対立の影響を受けて政治的に失脚したとする説もある。「沼田小早川家系図」では、建久2年(1191年)11月25日死去とされる。しかし、所領であった安芸国沼田荘では、承久元年(1219年)に、遠平とともに遠平の妻である天窓妙仏尼(寺伝では源頼朝の娘)を弔うために棲真寺(広島県三原市大和町平坂)を創建した記録が残っており、その頃まで生存していた可能性がある。安芸の米山寺過去帳では承久2年(1220年)11月死去とされている。また、『吾妻鏡』建久6年(1195年)7月13日条には「土肥後家尼参上」とあることから、この時以前に死去したとする説もある。
※この「鎌倉軍奉行」の解説は、「土肥実平」の解説の一部です。
「鎌倉軍奉行」を含む「土肥実平」の記事については、「土肥実平」の概要を参照ください。
- 鎌倉軍奉行のページへのリンク