金色堂に眠る秀衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 06:45 UTC 版)
秀衡の遺骸はミイラとなって現在も平泉にあり、中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められている。昭和25年(1950年)3月の遺体学術調査(『中尊寺と藤原四代』朝日新聞社編、昭和25年8月30日刊行、中間報告)では、金色堂の西北(堂に向かって右)が基衡壇、西南(堂に向かって左)が秀衡壇として調査が行われたが、その後の最終報告によると基衡と秀衡の遺体が逆であることが判明し、現在は向かって右の西北が秀衡壇とされている。平成6年(1994年)7月に中尊寺により上梓された『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』によると、秀衡は身長164cm、いかり肩で肥満体質、腹がよく突き出していたと思われる。幅広く厚い胴回り。鼻筋が通り高い鼻、顔は長く顎の張った大きな顔。太く短い首。重度の歯槽膿漏で虫歯もあり、美食の結果かと思われる。レントゲン検査によると、脊髄に炎症があったとされて、死因は背骨の外傷から菌が侵入してその感染をうけ、骨髄炎性脊椎炎ないしは脊椎カリエスかと想定される。骨髄炎性脊椎炎により敗血症を併発していたともされ、病床についた時間は長くなく、死に至ったと考えられている。また、骨髄炎性脊椎炎の影響で生前は脊椎硬直があって脊椎が曲がらず、晩年は臥床できなかった可能性もあり、高血圧、むくみの状態が見られ、腎疾患・心機能不全などが見られた。血液型AB型。死亡年齢は60歳代 - 70歳代くらい、あるいは70歳前後。右手首に数珠玉の跡が二列並んでいた。遺体に副えられた副葬品は、木製の杖、木製・ガラス製の念珠、金装の水晶露玉、黒漆塗太刀鞘残片、羅、白綾、錦、金銅鈴など、京都のそれに勝るとも劣らない当代一流の工芸品であった。 ミイラを基にした秀衡の復顔模型が存在する。
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