連邦党
連邦党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 09:02 UTC 版)
「アメリカ合衆国の保守主義」の記事における「連邦党」の解説
アメリカ合衆国財務長官アレクサンダー・ハミルトンが率いた連邦党は、ジョージ・ワシントン大統領の在任期間に、強い陸軍と海軍をもって、世界事情の中で独自の存在を保持できる強い国家を目指し、ウィスキー税反乱のような国内の反乱を鎮圧し、国家財政については金融や実業界の幅広い支持を得た健全な基盤造りを推進した。連邦党は知性的に自由を信奉しながら、アメリカ人の性格に合う保守的な見解も持っていた。サミュエル・エリオット・モリソンが説明しているように、自由は連邦と切り離せないものであり、人は基本的に不平等であり、人民の声は神の声である可能性は少ないと考え、外部の悪意ある影響力がアメリカの一体性を損なおうとしていると警戒した。歴史家のパトリック・アリットは、連邦党が憲法の下での法による支配、共和政府、選挙を通じた平和的な政権交代、司法権の優越性、安定した国家財政、信頼でき活動的な外交、および富の保護など、多くの保守的な施策を推進したと結論付けている。 連邦党は主要都市の事業家や商人が圧倒的に支持しており、ハミルトンの近代化、都市化および財政政策を支持した。これらの政策には、独立戦争の間に負った国の負債さらには州の負債の肩代わり(このことにより、各州は徴収する税を減らしても負債を返還できた)までの資金手当て、国定銀行の設立、製造業発展への支援、関税を使った国家財源の確保などがあった。外交分野では、連邦党はフランス革命に反対した。ジョン・アダムズ政権下で、1798年から1799年にフランスとの擬似戦争を戦い、強い陸軍と海軍を作った。思想的に、ジェファーソンの共和党と連邦党との間の論争は原則と流儀の違いから起こった。連邦党は大衆を信用せず、エリートが行政にあたるべきと考え、州の権限よりも国家の権限を上に置く方を好んだ。共和党はイギリス、銀行家、商人を信用せず、強力な中央政府を望まなかった。連邦党、特にハミルトンは、「大衆」、フランス、および共和党を信用しなかった。最終的には2つの考え方が融合した形となり、代表民主制を採用し、強い国家ができた。1820年代までのアメリカの政治は2大政党を受け入れ、競合する政党が選挙人の前でその主張を訴え、その勝者が政権を取ったことは重要なことだった。時代の推移と共に連邦党が平均的有権者への訴求力を失い、党組織の任務を果たせなくなった。共和党は1800年以降に成長して政治的な勝者になった。1816年以降、連邦党はジョン・マーシャルの最高裁判所を除いて、全国的な影響力を持たなくなった。連邦党は1820年代に入ると地方レベルでしか支持を得られなくなっていたが、後の大統領ジョン・クインシー・アダムズやジェームズ・ブキャナン、および後の最高裁判所長官ロジャー・トーニーなど重要な指導者は、連邦党の衰退を克服したことになった。 ジョン・ランドルフに率いられた「オールド・レパブリカン」は、連邦党との連衡形成を拒み、それとは別の反対派閥を形成した。共和党の主要指導者、特にジェームズ・マディソン、アルバート・ギャラティン、ジェームズ・モンロー、ジョン・カルフーンおよびヘンリー・クレイが、実際には連邦党の政策を採用し、第二合衆国銀行を設立し、交通のために内国改良を推進し、工場を守るために関税率を上げ、米英戦争に失敗した後は強い陸軍と海軍を作り上げた。「オールド・レパブリカン」はこれらのことが共和党初期の原則からの離脱だと攻撃した。
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