議員時代:前期
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数年間、ポールは地元で医師として働いたが、1971年8月15日にリチャード・ニクソン大統領が、米ドルの金本位制からの完全な脱却を宣言(ニクソン・ショック)したことを動機として政界入りを決心した。彼は「その日から全ての貨幣は、もはや本来の価値によって決まるのはなく、政治によってその価値が決まることになるだろうと思い、私は愕然としたんだ。」と言っている。 やがて1974年の中間選挙でテキサス州22区の候補者として共和党から出馬したが、現職の民主党のロバート・R・ケーシーに敗北を喫した(この時の選挙は民主党候補者が大勝した選挙であった)。その後1976年4月にジェラルド・R・フォード大統領がケーシーを連邦海事委員会の長官に任命したため、後任を選出するための補欠選挙が行われ初めて議席を得る(選挙区始まって以来の共和党議員でもあった)。しかし同年に行われた大統領選では予備選の段階においてロナルド・レーガンを支持(現職議員の中でもレーガンを支持したのはロンを含めて4人だった)、全国党大会でテキサス代表団がレーガンを支持する様に働きかけた。結局、6ヶ月後の通常選挙では僅か300票差で民主党のロバート・A・ガメージに議席を奪われた。1978年の選挙で雪辱を果たし、1980年と1982年の選挙でも再選を収めた。議員在職中にも月曜日と土曜日には産婦人科医として勤務し、自らが違憲だと思った法案には賛成票を投じなかったことから Dr. No と言う評判を集めていた。 ポールは、アメリカ連邦議会において1970年代で初めて下院での任期制限法を提案した議員で、彼自身、4期の任期中の視察旅行への参加や議員年金への登録を辞退していた。また、彼はインフレーション率に応じて議員給与を下げようと提案していた。1980年、共和党員の大多数が賛成していたカーター大統領の徴兵登録制度を復活するという提案に対して、ポールは、彼らの見解の矛盾を指摘した。ウォールストリート・ジャーナルの記事によると「彼らは銃を登録するより子供達を登録したがるだろう」と言った。 この頃下院金融委員会の一員だったポールは連邦準備金制度がインフレを引き起こしたのだと考えており、この制度を非難していた。また、1980年代の貯蓄貸付危機の対策に考えられていた銀行制度の規制解除にも反対していた。1982年に下院によって作られた、アメリカ金委員会は彼の提案によるが、この委員会から引き出された彼の結論は、ケイトー研究所から出版された、"The Case for Gold" (金の正当性)に書かれている。1978年から1982年にかけてのポールのスタッフのリーダーは、ルー・ロックウェルである。ポールは毎年恒例の連邦議会の野球大会の常連メンバーだった。 ポールは1984年のアメリカ合衆国上院の共和党予備選挙で、フィル・グラミーに敗れた。彼は下院での再選ではなく、上院での活動を選んだのだが、結果彼は1985年に議会を去って医療の世界に戻ることになり、彼の議席は、テキサス州下院の議員だったトム・ディレイが引き継いだ。辞任演説でポールは、「我が国の憲法の制定者は、広く市民の幸福を目的としていたが、今や特定の人々の利益が目的となっている。ここでは票の取引が正当な施策としてまかり通っている。お使い坊やの議員達は凡庸な人種なのに、自由の擁護者は変人と思われている。真の自由を愛し、国家の権力が強大になることを否定し、本物の皮肉屋を残さない者にとっては困難だ。」と語った。
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