解体の経緯と前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 15:01 UTC 版)
「第1号館」の竣工を契機として、丸の内には軒高と意匠の整えられた煉瓦造の建物が続々と立ち並び、1900年代末期には一丁倫敦と称される街並みを形成するまでに至った。 しかし、耐震性に難のある煉瓦建築は関東大震災で甚大な被害を被り、耐震性や土地の利用効率に優れる明治生命館などの合理的なアメリカ式オフィスビルへの建て替えが進んだ。 第二次世界大戦で日本が敗戦したのちの1946年(昭和21年)4月には東寄別館を占領軍が接収し、1956年(昭和31年)2月解かれるまで隣接するもと丸ノ内八重洲ビルヂングにして八重洲ホテルの従業員宿舎として供された。 高度経済成長の1959年(昭和34年)にスタートした三菱地所による再開発事業「丸ノ内総合改造計画」により、赤煉瓦街は急速に姿を消していった。 1960年代後半になると、「東9号館」(当時の通称は三菱旧1号館)は一丁倫敦の面影を残す数少ない建物となっていた。特に同館は東京の近代的都市計画の出発点、初期の近代的事務所建築として歴史的価値があり、当初の形をよく保存した明治時代の洋風建築として文化的価値も高く、研究者の間では日本銀行本店、旧赤坂離宮(迎賓館)と並ぶ「明治の三大建築物」に挙げられていた。 明治時代の優れた建築物などを文化財に指定することを要望する旨、日本建築学会が1960年(昭和35年)10月24日付で文部大臣及び文化財保護委員会委員長代理宛てに提出した「明治建築の保存に関する建議書」においても、本建物は文中に例としてあげられていた。 一方、同館を所有する三菱地所では、オフィス需要の急伸に伴い同館を含む区画の立て替えが検討されていた。そのため同社は上述の東西別館を1967年(昭和42年)4月それぞれ取り壊して用地にあてることとした。
※この「解体の経緯と前史」の解説は、「三菱一号館」の解説の一部です。
「解体の経緯と前史」を含む「三菱一号館」の記事については、「三菱一号館」の概要を参照ください。
- 解体の経緯と前史のページへのリンク