藤沢カントリー倶楽部の明暗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:31 UTC 版)
「グリーンハウス (藤沢市)」の記事における「藤沢カントリー倶楽部の明暗」の解説
高台にあって富士山から江の島、相模湾に三浦半島を望む風光明媚かつゴルフコースとしても優れた藤沢カントリー倶楽部は、当時関東地方で最も環境に恵まれたゴルフコースのひとつと呼ばれた。藤沢カントリー倶楽部では日本プロ選手権を始め、戦前、多くの大きな競技が開催され、ゴルフクラブの会員数も順調に増加し、藤沢カントリー倶楽部は関東有数のゴルフ倶楽部へと発展していった。 藤沢カントリー倶楽部には、ゴルフ好きで知られた朝香宮鳩彦王、そして東久邇宮稔彦王や近衛文麿らの皇族、要人らもゴルフを楽しんだという。皇族や要人たちは馬車でクラブハウスにやってきた。クラブハウスは当時、キャディの立ち入りは禁じられており、ゴルフクラブ会員のクラブハウス利用時には入り口でキャディとのゴルフバックの受け渡しを行ったという。クラブハウスの食堂では、多くの場合肉料理中心の洋食が出されたといい、魚料理はあまり出なかった。メニューとしてはハムライス、ハムサンド、そして豚カツなどもあったという。 このように藤沢カントリー倶楽部の経営は順調であったが、周囲の目は必ずしも好意的なものばかりではなかった。早くも1933年(昭和8年)に刊行された書籍の中で「当倶楽部はすでにその入会料の莫大たると、用具の高価たるのみにても一般民衆を驚嘆せしめ、かくの如き豪奢ぶりは、将来下級民衆の思想上に大いなる悪影響を与えるとの危惧の念を深らしめた」とか、「(藤沢カントリー倶楽部は)すなはち特権階級の娯楽機関たるものである」、など、厳しい批判が記述されていた。戦前期、ゴルフはしばしば特権階級、ブルジョアの贅沢な遊びであり、一般大衆に悪影響を及ぼす亡国の遊戯であるなどといった批判がなされていた。これはやがて戦時体制が強化される中で、ゴルフが厳しい受難の時代を迎える要因となっていった。 ところで1938年(昭和13年)4月、藤沢に聖心愛子会藤沢本部が竣工した。聖心愛子会の修道女たちは5月頃に行われる昇天祭の際、藤沢カントリー倶楽部の許可を得てゴルフ場内を散策することができた。そしてゴルフ場を散策する修道女たちは、青緑色のスパニッシュ瓦で葺かれたクラブハウスのことをいつしかグリーンハウスと呼ぶようになった。戦前期、藤沢カントリー倶楽部クラブハウスをグリーンハウスと呼んだ記録は皆無であり、聖心愛子会からグリーンハウスという呼び名が広まっていったものであると推測されている。
※この「藤沢カントリー倶楽部の明暗」の解説は、「グリーンハウス (藤沢市)」の解説の一部です。
「藤沢カントリー倶楽部の明暗」を含む「グリーンハウス (藤沢市)」の記事については、「グリーンハウス (藤沢市)」の概要を参照ください。
- 藤沢カントリー倶楽部の明暗のページへのリンク