薬種商として
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江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。また、明和年間から「和製龍脳売払取次所」の業務も行うようになった。
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薬種商として
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養父である良輔が亡くなると、その家督を継ぐとともに良輔を襲名した。のちに良甫と名乗った。もともと尾澤家は1796年(寛政8年)に薬種店を創業した家であったが、養父の急逝により家産が傾き、その後は単身で流寓するなど苦労を重ねた。しかし、その間も努力を怠らず、1863年(旧暦文久3年4月)に尾澤家を再興し薬種店を開業した。同年は日本で麻疹が大流行しており、江戸府内でも多数の死者が出ていた。薬種店の前には患者が多数押し寄せる事態となるが、不眠不休で患者の施薬にあたった。特に、薬代すら支払うことができない貧しい患者に対しては、その請求を猶予するなど、私財を投じて麻疹の治療に尽力した。こうした治療方針や高い医療技術が評判を呼び、江戸時代において「尾澤薬舗」は著名な薬種店の一つであった。江戸府内では高く評価され「脈をとらせても当代一」と謳われるほどであった。 明治維新後も、引き続き東京府豊島郡牛込筑土八幡町(現・東京都新宿区筑土八幡町)にて「尾澤薬舗」を営んだ。新しい世となって尾澤薬舗の評価は変わることなく、新たに官営病院御用薬舗の指定を受けている。1875年(明治8年)、東京府豊島郡上宮比町(現・東京都新宿区神楽坂)に「尾澤分店」を新設することになり、良甫の甥の大駒豐太郞にそちらの運営を任せることにした。1877年(明治10年)11月、良甫の長女と豐太郞が結婚することになり、良甫は豐太郞と養子縁組をしている。豐太郞は薬局を経営するだけでなく、医薬品や医療機器の製造にも乗り出した。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に工場を建設し、日本人として初めてエーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリウムの製造に成功した。さらに、当時としては珍しい医薬品も店頭で多数取り扱うようになった。その結果、「神楽坂尾澤薬舖に行けばどんな薬もある」と評されるようになり、東京府の薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」と謳われるようになった。なお、1871年(旧暦明治4年2月29日)、良甫にとっての嗣子である初代尾澤良助が生まれた。初代良助は早くも1876年(明治9年)9月に良甫から家督を継承し、のちに薬剤師として筑土八幡町の薬局を継承した。 晩年の良甫はさまざまな公職を歴任するとともに、外交や安全保障といった社会問題にも関心を持つようになった。1887年(明治20年)7月21日、良甫は防海費献納運動に賛同し、日本の沿岸防衛のために私財1,000円を提供したことから、銀製黄綬褒章を授与された。また、1892年(明治25年)10月、栃木県河内郡宇都宮町(現・栃木県宇都宮市)近辺にて陸軍近衛師団、第一師団、第二師団による「陸軍大演習」が行われた際、宮内大臣土方久元より明治天皇の聖旨を伝達され、宴席に招かれている。1894年(明治27年)8月1日、妻子と団欒に興じている中、日清戦争の勃発を知り大いに悲憤慷慨したところ突然倒れ、そのまま亡くなった。
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