尾澤良助
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尾澤 良助(おざわ りょうすけ、1871年4月18日《旧暦明治4年2月29日》 - 1921年(大正10年)2月14日[2])は、日本の薬剤師、政治家。学位は薬学士(帝国大学・1892年)。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、尾沢 良助(おざわ りょうすけ)と表記されることもある。長男の尾澤良靖も、のちに「良助」を襲名しているため、混同しないように注意を要する。
註釈
- ^ 私立薬学校は、かつての東京薬学校、薬学講習所の流れを汲んでいる。のちに東京薬科大学の源流の一つとなった。
- ^ 帝国大学は、のちに東京大学の源流の一つとなった。
- ^ 浦和県豊島郡牛込筑土八幡町は、のちの東京都新宿区に該当する。
- ^ 慶應義塾は、のちに慶應義塾大学の源流の一つとなった。
- ^ 東京一致英和学校は、かつての築地大学校、先志学校の流れを汲んでいる。のちに明治学院大学の源流の一つとなった。
- ^ 薬舗開業試験は、のちに薬剤師国家試験の源流の一つとなった。
- ^ 薬剤師は、かつての薬舗主の流れを汲んでいる。
- ^ 帝国大学医科大学は、のちに東京大学医学部の源流の一つとなった。
- ^ 帝国大学医科大学薬学科は、のちに東京大学薬学部薬学科の源流の一つとなった。
- ^ 東京府東京市牛込区牛込筑土八幡町は、のちの東京都新宿区筑土八幡町に該当する。
- ^ 東京府東京市牛込区牛込上宮比町は、のちの東京都新宿区神楽坂に該当する。
- ^ 岡山医学専門学校は、のちに岡山大学の源流の一つとなった。
出典
- ^ 『日本現今人名辭典』3版、日本現今人名辭典發行所、1903年、をノ46頁。
- ^ 「(死亡広告)尾沢良助儀」『朝日新聞』、1921年2月16日、3面。
- ^ a b c d e f g 「神楽坂4丁目・6丁目――尾澤薬局」『かぐらむら: 今月の特集 : 記憶の中の神楽坂』サザンカンパニー。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 田中重策編纂主任『日本現今人名辭典』訂正2版、日本現今人名辭典發行所、1901年、をノ42頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を49頁。
- ^ 粋なまちづくり倶楽部監修『神楽坂を良く知る教科書――神楽坂検定初級』2015年11月、6頁。
- ^ 吉田保次郎編輯『東京名家繁昌圖錄』初編、吉田保次郎、1883年、60頁。
- ^ 尾澤良助「故日本藥學會有功會員遠山源左衛門君小傳」『藥學雜誌』312号、日本薬学会、1908年2月26日、i-ii頁。
- ^ a b 尾澤良助「賣藥業に成功せし實驗談」『実業少年』1巻6号、博文館、1908年6月、25頁。
- ^ 尾澤良助「故日本藥學會有功會員遠山源左衛門君小傳」『藥學雜誌』312号、日本薬学会、1908年2月26日、i頁。
- ^ a b 交詢社文庫編纂『日本紳士録』訂正増補再版、井出德太郞、1882年、125頁。
- ^ 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を48-を49頁。
- ^ a b c d 田中重策編纂主任『日本現今人名辭典』日本現今人名辭典發行所、1889年、をノ42頁。
- ^ 『截瘧強壯丸・治方丸おりの邪氣拂薬』。
- ^ a b c d e f 內尾直二編輯『人事興信錄』4版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1915年、を28頁。
- ^ a b c d e f g h i 內尾直二・礒又四郞編輯『人事興信錄』2版、人事興信所、1908年、300頁。
- ^ a b c d 内尾直二編輯『人事興信録』6版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1921年、を35頁。
- ^ 特許番号23782号。
- ^ 橋本小百合・庵雅美編『発明に見る日本の生活文化史』化粧品シリーズ2巻、ネオテクノロジー、2015年、137頁。
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